リ:スタート
焼き爛れた皮膚を男は引きずり、歩いた。ほの明るい夜道に慟哭が響いていた。泣きたいのは俺の方だと男は思った。草に引っ掛かり足がもつれて転び、土が口に入り込み、男は咄嗟にえづきもしなかった。何もかも痛む。故郷を思う。それが哀惜なのかは分からない。愛しかったろう。かつては。されど死ぬ間際にも、もはや断言することは出来ない。泣き言ばかりを抱えていることを男は自分に諦め、目を瞑った。
*
目覚めは唐突だった。
目覚めなければ、と思い、男は目覚める。目覚めてしまったあとで、男は、目覚めてしまったのか、と気づいた。
「おや、思いの外早かったねえ」
薄紫の髪をした、女だった。若くもなく年寄りでもなかったが、女の外見の年齢は大概嘘だからあてには出来ない。近頃ではわざと老けてみせるような魔法も流行っている。男は声を出そうとして喉が張り付き、噎せる。女が水を飲ましてくれる、液体の感覚が食道を通り、腹のなかに染み込んでいく。途端、腹が鳴る。ひどくしゃがれた蛙ような音だった。
「ははは、元気だね、よかったよ」
気安い指が男の額を撫でる。
「助けてくれたのか」
「助けたのかは分からないよ」
「俺が死んでないのなら助けられたということだ」
「あんなところで死にかけているから死にたいんだと思ってたよ」
「そういうわけじゃーー」
ない、と男は言う。
「あたしはアデール。あんたは」
「フォロック」
「そう、宜しくね」
「こちらこそ」
と言ってから男はーーフォロックははたと気付いた。身体が治っている。傷ついた痕もなにもなく、すべてが完璧だった。今更になって熱心に身体の具合を確かめてる様子にアデールが可笑しそうに笑う。
「治してあげたんだ。きちんと代価を貰うよ」
「何を?」
「分かるだろう?」
「分からないさ」
「実は決めてないんだ」
「しかし魔女だろう、あんたは」
通常魔女なら対価が決まっている。それによって使役する使い魔も違うし、使える術も違うはずだ。
「相場は憎しみだけどね」
「ならたんとある」
「だから詰まらないね、と思って」
「は?」
「追々決めるさ」
「そんなことあるのか?」
「さあね」
アデールは詰まらなそうに言う。食事もってくるよ、と部屋から出て行く。フォロックはベッドに沈み込んだ。ここはおそらく屋根裏部屋だろう。幸いベッドは窓際に置かれており、外の様子も視認できた。遠くに煙が見える、村でもあるのだろうか。周囲は木々ばかりだが、井戸と畑も見える。ここでアデールが暮らしているのは間違いないようだ。フォロックは目を瞑った。身体は治ったが、気力は回復していないようだ。なにかを考えようとするが、引きずり混まれるように眠ってしまった。
「おや」
寝たのかい、とアデールは声をかける。オートミールを持ってきたが、フォロックは起きる気配がない。酷い傷だったからやむを得ないとアデールは諦めて、サイドボードに置く。フォロックは傷こそ負っていたが壮健な男だ、若いわけではなく年寄りでもなかった。アデールは魔女だが、フォロックは傭兵のようだ。近くの砦が焼け落ちた噂を耳にした、敵襲が疑われたが近頃戦争が始まるという話もない。何より生き延びた者たちが、いきなり仲間に火を点けた男がいると言う。フォロックは生き延びた方なのか、それとも火を点けた方なのか。フォロックは眠っている。
*
「アデール」
「何だい」
「何か手伝えることはないか」
寝て起きて飯を食いまた寝て起きて飯を食いを繰り返したフォロックは、すっかり元気になったようで、声をかけてきた。
「薪割りでもしてくれ」
「分かった。他には」
「そうさなあ……」
「何もないのか」
「この家のことはあたしで事足りるからね」
「そうか」
「器用ならこれをほどいてくれ」
アデールはぐちゃぐちゃになった紐を差し出す。
「何だ?」
「紐だよ」
「見れば分かる」
「いいから、うるさいね」
「分かったよ」
ほどいてから分かったがアデールの服の紐だった。腰の辺りで結んで飾りにするものらしい。喜ぶアデールを見届けて、フォロックは薪を割った。アデールは何も聞かなかった。あるいはすべてを分かっているのかもしれない。アデールは魔女だが、魔女にはいろんな種類がある、攻撃、防御、変化、治癒、呪い、祝福、捜索、薬、予見ーー大抵はどれかひとつ専門としている。繰り返すが対価は決まっている、攻撃ならば贄、防御なら鉱物、これが呪いなどとゆくと精神面の物質に重きを置いていく。憎しみ、とアデールは言った。――憎しみ。
意識が逸れ、薪からずれた斧が土台の木に刺さってしまった。
思いの外深く入り込んだ斧に難儀していると、アデールが笑う。フォロックは急に恥じた。何もかも見透かされてるのかもしれない。アデールから意識を剥がして、フォロックは再び薪割りに専念した。
アデールは時々出掛けて、夜遅くに帰ってきた。決まって酒の匂いがした。フォロックは――そんなことがわかる日数、アデールの家に滞在している。アデールは特に出てけ、と言わず、フォロックも出て行く、とは言わなかった。行く場所がなかったのだ。時々、アデールとフォロックはセックスをしたが恋に落ちたというわけでもなかった。アデールの身体は柔らかく、肌はしっとりとしていて、その癖掌は労働の証でざらざらしていた。爪の奥に畑の泥が入りこみ、傷だらけの指をフォロックは好んだ。フォロックの身体にはいくつもの傷が残っており、何も戦でついたものばかりではなく、幼少期の虐待によるものも多かった。アデールが治した傷だけが完璧に消え去り、消えないフォロックの傷がいつついたものであるかを、アデールはよく聞きたがった。これは飯を食うのが遅いからと棒で殴りつけられたもの。これは返事をする声が小さいからと、何度も蹴られたもの。こちらを見る目が醜いからと縛りつけられて切りつけられたもの。哀れむ様子のないアデールは、どこか愉快そうに傷跡を弄んでいる。フォロックの胸に希望はなかった。
この生活がいつまでも続く由はなかった。
――やがて、国の騎士隊がアデールの家に訪れる。
アデールの話を注意深く聞いていた嫉妬深い男が、アデールの家に誰かがいることを確信した。話を膨らませ、あの砦から逃げた男だと、喧伝した。間違いではなかった。いいや、その通りだった。
フォロックは素直に捕縛され、アデールも申し立てしなかった。
共犯とされてアデールも捕まった。
牢屋ではフォロックへの嫌がらせでアデールはフォロックの前で騎士に犯された。馴染んだ女の悲鳴のような嬌声を聞きながら、フォロックは歌を思い出す。故郷で、収穫の際にみなが歌っていた歌だ。故郷をふと懐かしんだ。故郷は――やがて燃やされた。国境に程近い村だった。砦が傍にあり、兵たちとの関係も悪くなかったはずだーー分からない、その時は子供で、フォロックは虐待されていたし、何もお話してくれるような大人はいなかった。懇切丁寧に何もかも伝えてくれる者はいなかった、唐突に村は燃やされ、村人は殺された、犯され嬲られた者もいたはずだーーしかしそれは、記録には残らなかった。フォロックは何故かここにいる。
「アデール」
フォロックは後ろから豚のように突きあげられている魔女の名を呼んだ。
魔女は少し笑う。ゆっくりと、変化は訪れる。アデールを拘束している騎士たちが倒れ始めた。何かに侵食されたように、――老いて行く。枯れて行くと言った方が適切かもしれない。やがて衰弱して死に至る。
「さて」
アデールは何事もなかったように着衣の乱れを直した。
「俺は――あんたに会っているな」
フォロックを拘束する鎖をアデールが破壊する。立ち上がったフォロックはアデールを抱き締める。アデールは身を捩る。先程の男たちの体液の匂いがした。
「水浴びでもしたいねえ」
「それがいいかもしれない」
「悪趣味もいいところだよ」
「……あんたの本当の代償は何なんだ」
「それを言うのは三流さ」
アデールは笑う。
門番を同じように殺し、牢屋を抜け、城へ出る。さっさと庭へと出て、井戸から水をくみ上げてアデールは水浴びをした。服を脱いで、裸体を晒し、丹念に手で洗う女をフォロックは美しいと思った。閉じられた傷が開くようだ。憎しみという言葉を咥内で転がす。噛みしめて味わう。砦に火を付けたのは――仲間に火を点けたのは他でもない、フォロックだ。
燃えた人の匂い、焦げた布の匂い、全部まじって生臭いとも良い匂いとも言えた。肉が燃える。髪からは嫌な匂いがした。つんざく人の悲鳴。人から人に燃え移って、よく燃えていた。煙で呼吸ができなくなって目からは涙があふれていた。人が逃げ惑う中に紛れ込み、フォロックは逃げ出した。遠く走り――それが何故なのか、見当がつかない。砦にはかつての故郷を襲った兵が居た――それは事実だ。事実なだけだ。それが憎しみ――と言われるととんと分からなくなる。人が人を殺すのに理由は大したことはない。ただ、殺したかっただけなのか。
「行くかい」
アデールが言う。
フォロックは頷かなかった。
「どこにも行く気がない」
「詰まらないね」
「詰まらなくていいさ」
「じゃあ隣に居るよ」
「ああ」
牢屋のことが騒ぎになっているのだろう、物騒な物音がしている。遠からずここに居ることは分かるだろう。
「助けない方が良かったんだろう」
「そんなことはない」
「そういう顔だ」
「あまり――考えたくない」
「考えないように行けばいいさ」
「そういうもんか」
「そうしてきた」
「魔女も案外適当だな」
「適切なんだ」
行くよ、とアデールが言う。
フォロックは頷いた。
「やっていけばいいさ」
「何をだ」
「火」
「――また適当だな」
フォロックは火を点けた。
どこからともなく火は生まれた、男の指先にほんのりと灯った火は傍の草に燃え移り、やがて広がってゆく。煙が立ち上がり、異変に城の者も気付いた。騎士達が駆け付けるが、炎で二人には近づけない。行くかい、とアデールは言う。行くさ、とフォロックは言う。
「――俺が原因だったのか」
「どうだろう。誰でもよかったんじゃないかい」
「そんなもんか」
「そんなものだよ」
魔法を使えるのは通常女とされている、だが稀に――男が使えることもある。そういう者は珍しく、しかし大概にして――国を滅ぼす忌子とされている。アデールは言う。女が魔法を使えるんじゃなくて、魔法を使う男が殺されてきただけさ。知らない間に。喧々囂々の炎と怒声に二人は目をくれず、飛んでくる矢を跳ねのけて、フォロックはアデールを見る。
「あんたの代償は」
「しつこいね」
「ああ」
「――そうさねえ」
アデールは頭上を仰いだ。
高く聳える塔の上、そこに王が居る。それ以上アデールは何も言わず、フォロックは尋ねる言葉を持たなかった。代わりに、好きな指先を掴んだ。掴んで握りこみ、抱きよせる。
「俺のこと、使ってくれ」
「そのつもりだよ」
宣戦布告さ、とアデールは指を鳴らした。
炎は一層大きく弾けて、周囲を生き物のように飲みこんでいく。それは二人をもそうだった。炎は燃え盛った、しかし城からは出て行かず、ただ城だけを徹底的に焼きつくさんとした――尚、しかし。
炎は消えた。
「豪勢なことだ」
塔より眺める一人の王が居た。
「グレイグ様」
顔色一つ変えず宰相が呼びかける。
王は頷くに留める。大儀そうに座に寄りかかり、飽いたように欠伸をした。
宰相は溜息を吐く。これより押し寄せる部下に指示をしていかなければいけない。
この国は――今日も平穏無事である。
二人は歩いている。
どこへともなく。
手を繋ぎながら。