操者の陰謀~戦の匂い~
血の弾ける匂い、肉の踏み潰される音。まるで昔が戻って来たみたいだ――と蜀の将兵姜維は心中に笑みを描く。
馬に乗り、軍を率いては戦場を駆ける。長坂の英雄・趙雲直伝の槍を振り回し、肉を裂いては敵兵を踏み潰して行く。だが、胸のわだかまりは晴れなかった。
呉の政争が終わり、呉から帰還してすぐの事だった。平穏が訪れ姜維も自分の仕事を片付けていた頃、急報が入る。漢中が魏軍に襲われているとの事だ。漢中は蜀の首都である成都の真上。そこが破られれば成都まで一直線である。それだけは避けたい。
そもそもこの小競り合いは何かおかしい。斥候が掴んだ情報によると、どうやら魏は蜀が攻めたと思っているらしい。しかし、蜀は攻めていない。それは物的証拠もある。だが、彼らは遠征軍。兵糧が尽きればすぐに撤退するだろう。老いる事もない人間だが、飯が無ければ生きられない。それは変わる事のない事実である。昔は人間も老いたらしいが、それも半信半疑だ。
姜維は眼前の敵を蹴散らし、自軍を率いて前線へ。蒋琬の軍と挟撃する作戦である。山頂に布陣している魏軍の大将は既に孤立しており、水路も断った。救援が来る事は確かだろうが、何にせよこの状況。おかしい事は気付いているだろう。なら、何かしらしてくるはず。となると一度本陣に戻った方がいいだろうか。
「姜将軍、魏軍が一旦退き始めた」
偵察として少数の部隊で戦場を駆け回っていた夏侯覇が戻って来た。何かあるんじゃないですかと尋ねられ、姜維は一旦軍を本陣近くまで退く事にする。山頂で布陣している魏軍総大将の部隊の包囲はもちろん解かないが。
「なら、我々も一旦下がるぞ。夏侯覇、ご苦労だった」
「にしてもおかしいですね。あっちから仕掛けて来たってのに、策を見せようともしない」
「……そうだったらどれほど楽だったかな」
姜維は夏侯覇と彼の部隊と共に本陣付近まで後退する。他の蜀軍も同様だった。漢中って言うと俺の父上がそっちの老将に引退へ追い込まれた事を思いだしますぜと夏侯覇は呟く。そう言えばそんな事もあったような、無かったような。
「で、何で黄皓が戦場に出て来てんだ? 主公の命令でもないでしょうに」
「私も知らん。だが何処かの誰かが変な事を吹き込んだんだろう。軍功を立てるために前に出て来ているのはわかる。そもそも、黄皓に軍権などないからな」
蜀軍の総大将は黄皓だが、実質の総大将は姜維だ。黄皓は宦官であり彼の職務は劉禅の世話である。政治に口を出すなど有り得ず、ましてや戦に出てくるなど有り得ない。だが彼は策を立てる事も知らず、山道に布陣しようとしていた。それを姜維は否定し、即座に別の場所へ布陣させた。
部隊は本陣付近を守備させ、姜維は夏侯覇を連れて本陣へ戻ると何だか賑やかな声が聞こえる。宴会だと言う。戦の最中に宴会など、ふざけた事を。
「姜将軍、どうするよ。……黄皓がアレって言っても本当の指揮官はアンタだし――」
「いっそ戦の最中に殺せたら楽だがな。……一先ず出方次第だ。奴らの対応、何処か引っ掛かる」
いっそ、敵本陣を落としてしまおうかと思うが、それを行えば鼎立が崩れる。乱世に戻したくはないという劉備と劉禅の願いだ。姜維はなるべく守りたい。
そんな時だった。斥候部隊の一人が本陣へ駆け込んでくる。兵士は姜維と夏侯覇の前に跪いて拱手し、口を開く。
「伝令! 魏軍から使者が来ております」
内容を聞かず姜維は「通せ」と伝えた。宴会を楽しんでいる黄皓は自分の意見を聞かずに通されたのが不服なようだったが、姜維は気にしない。そもそも、兵士達も誰が本当の指揮官なのか理解している。
そしてやって来たのは、少しの兵を率いた男だった。腰まである漆黒の髪を低い位置で纏め、黒の中華服に似た漢服を纏う男は軽く右手を挙げて「よう」と気安く声を掛けてきた。夏侯覇は怯えたように拱手をし、姜維はただその男を見上げていた。
司馬昭――魏の大将軍である。
「久し振りだな、伯約に夏侯覇。夏侯覇はそんなでもねーか……?」
一歩踏み出した司馬昭の前に姜維は立ちはだかる。間の抜けたような声、お気楽な表情。何もかもが嫌いだった。昔から嫌いだ。
司馬昭は魏の大将軍である。兄・司馬師が病にて倒れ、後を継いだ。その司馬師も現在は復帰しているが万全ではないらしい。そのため、魏で実権を握っているのは司馬昭でもある訳だが。ちなみに元姫の正室だ。
「何の用だ。交渉でもしに来たか」
「ツレねーな。久し振りに会ったんだし、幼馴染み同士仲良くしようぜ」
「用件を言え。この戦の事だろう」




