幻影の焔~終幕~
蔡琰の掠れた声が耳に届く。毒が回り、映るもの全てが霞む。霧が掛かったように。これは本格的に危険だ。
「私は劉禅殿と曹叡殿を狙わないと言いましたが、先帝二人を狙わないとは言っていませんよ」
「まさか、全てはこの時のために……っ全て、お二人を殺すための布石だったのですか!」
「ご名答。流石、博学なあなたは気付いたようですね。最初から劉備と曹丕を引っ張り出すためですよ。そのために、バレないために、あなた達を誘導しました。あたかも劉禅殿と曹叡殿が狙われているように」
でも一つ誤算だったのは王元姫殿です。彼女の力は大幅に台本を狂わされました――と陸遜は少し憎々しげに紡ぐ。そりゃそうだ、元姫は人間ではない。人間が敵う訳がないのだ。
「私があなた方を呼び出したのは、此処に留めておくため。今頃、趙雲殿や王元姫殿は孫魯班殿に呼び出され、劉備や曹丕は殺害されているところでしょう」
殺害。その言葉を聞いて姜維は安心した。そして蔡琰と視線を合わせては珍しく、笑みを見せた。それは人には見せられぬような悪意溢れる笑みだが。その笑みが陸遜にとっては不快に感じたらしい。それなら、嬉しいが。
「ふ、はは、ははははッ! 貴様の浅慮を褒め称えてやろう、陸遜」
姜維は毒の痛みすらも耐えて、額に手を乗せ腰に手を添えて笑う。それはまるで悪党のような笑い方だっただろう。
「劉備殿が、曹丕が殺されるだと? 自惚れるなよ、陸遜。あの二人が負けるとでも? 貴様とは違って、劉備殿は戦場での生活が人生の半分以上の人だぞ。曹丕は十一の頃から曹操の戦に従軍していた。そんな二人を容易く殺せると思うなよ」
劉備は元々地元でゴロツキだったと関羽、張飛に聞いた事がある。悪漢を束ねる立場であり慕われていたと。昔はよく暴れていたそうだ。だから彼が負ける事は有り得ない。曹丕は曹丕で戦慣れしている。襲われる事があっても負ける事はない。
「それを覆すのが私達です。伯約殿、あなただって毒に引っ掛かった。毒であなたは死にます」
「毒で、私が殺せるとでも? こんな薬物で、私を殺せると思うなよ。私を殺したければ、この首を身体から引き離すしかないぞ、陸遜!」
額に汗が滲む。だがそれすら今は煩わしい。身体の奥底からわき上がる熱が、己の力を引き立てる。身体が火照るのはきっと天が味方したからだ。姜維は胸に手を添えて陸遜へ叫び、蔡琰から半円を描いた反り立つ剣のような武器を受け取ると陸遜へ向ける。陸遜は酒を投げ捨て、剣を姜維へ向ける。
「姜維、気をつけてください。何処から毒が穿たれるかわかりません」
「わかっています。蔡琰殿、あなたは支援を。目が霞んで見えにくいので」
「わかりました。では姜維、昔のように」
姜維は頷き、目を閉じた。霞む目なら要らない。必要なのは蔡琰の声だけだ。姜維はそのまま助走もつけず飛び上がる。
「乾」
蔡琰の声を頼りに剣を振り下ろす。「乾の一」の言葉を耳に入れ身体を空中で一回転させ、再び剣を斜めに振るう。肉の切れる感触を刃から感じ取り、姜維は地面に着地する。
「くっ……」
「艮」
その位置から右斜めへ前身。地面を蹴って迫る。陸遜の居る位置は気配で感じ取れる。だが細かな位置はわからないため、蔡琰の支援が必要となる。姜維は一旦刃を退き、数歩後退。風を切る音を感じ、陸遜が刃を振るったのを確認した。
「艮の四」
刃が再び振るわれる。が、その刃を剣で受け止める――事はせずそのまま振り下ろして叩き折る。砕ける音を耳に感じ、姜維は目を開けて崩れ落ちる陸遜を見つめる。彼の身体は右肩から斜めに斬り裂かれ、汗が滲み、血は止まる事を知らぬように滴っていた。姜維は彼の首に刃をかける。
「負けですね、私の。流石、あなたには敵いませんでしたか」
「最後に言い残す事は」
「願わくば、伯約殿、あなたの人生が絶望で彩られますように、そう祈りましょう」
最後に握手を。手を差し出す陸遜に姜維は武器を蔡琰に手渡し、右手を差し出した。だがその手を引かれ引き寄せられる。蔡琰の姜維を呼ぶ声に何をされるか瞬時に理解するが、既に遅かった。首筋に痛みが走り姜維は陸遜を突き飛ばす。
鼓動が、心臓が、何もかもが早くなる。呼吸がしづらく、空気を取り込むのも辛い。立っている事が出来ず姜維はその場に倒れそうになるが、蔡琰に抱き留められる。彼女の胸に顔を埋めるようにして浅く呼吸を繰り返す。
「ダメですよ、伯約殿。……しっかり、警戒をしておかないと」
「り、くそん……っ!」
陸遜は立ち上がり背を向ける。視界が血に染まる。赤く彩る。胸が苦しい、手が痺れる。姜維は身体に力が入らず、そのまま蔡琰と共に地面へ崩れ落ちた。這いつくばりながら口元を血で汚しながら陸遜を見上げる。口内が鉄の味しかしない。臭いも、何もかも、血の味だ。蔡琰に追わせる事はしなかった。いや、言ったところで彼女が行く訳がない。
「では伯約殿、黄泉でお会い致しましょう」
それだけを言い残し陸遜は去って行く。追う事も出来ず、立つ事も出来ない。何も出来ず姜維は蔡琰に支えられ、痺れる手を伸ばし――深淵へ落ちていった。最後に蔡琰の悲痛な声を耳にしながら。
敗北。その二文字だけが残った。




