幻影の焔~悲しみと、痛みと~
孫権暗殺、太子廃立、魏蜀の皇帝襲撃――。何処までが彼で、何処までが孫権なのか。姜維は血の気が己から抜けていくのを感じながら、陸遜を見上げた。彼はただじっと、何もせず見つめている。その手に毒入りの葡萄酒を持ちながら。その目には何も映っていないのはもはや問う価値のないものだ。そしてこの質問も愚問でしかない。
「全てですよ。太子廃立も、殿の暗殺も私が手引きしました」
隣で蔡琰が絶望した声を漏らす。姜維は間を空け、一度目を閉じ、覚悟を決め「そうか」とだけ言葉を返した。その言葉だけは聞きたくなかった。
「殿は呉の内情に嘆いておりました。平和を信ずる我らは、乱世を望み己が国の天下統一を望む二国にいずれ滅ぼされるだろうと。だから我々は国家で一計を投じました」
「そのために、十年も、十年以上も国家に混乱をもたらしたと言うのですか!」
蔡琰の叫びはもっともである。彼女は悲痛な声で、訴える。彼女も核のせいだと理解しているが、国を混乱に陥れたのは許せないのだ。曹丕の護衛をしてきた身として、曹家に仕えてきた身として。
「国家のためならそれもまた、当然の理です。私達だって好きで国家を混乱に陥れたのではありません。必要な、事なのです。戦乱を起こさないために、魏蜀に牽制する。その手始めとしてまずは、姜維殿――蜀の軍事を支えるあなたを殺します。その次、魏の知を支える郭嘉、司馬懿、荀彧――と言った人を殺しましょう」
陸遜は左手を横に軽く広げ、酒を持った右手を腰に沿えて告げた。
「二国と戦になる。それは考えていないのか」
姜維は口元の血を袖で拭い去る。これもまた、現実か。姜維は絶望しかないこの道を恨んだ。
「考えていますよ。ですが戦とするのは不可能でしょう。我々は一計を投じ、呉内で殺害します。証拠も何もかも隠蔽致します。これもまた平和のため。そのための礎なのです」
「わかった。もういい、陸遜――喋るな」
姜維は髪を束ね、髪の一束を巻き付けては髪を結んだ。そして鋭い瞳で、刃のような瞳で彼を睨み付ける。
「これ以上は無用だ。望み通り貴様を、殺してやる」
蜀のため、陸遜のため――そんなものではない。ただ、ただ、辛かったのかもしれない。核という存在に翻弄されている彼を見る事が。人格すら変えてしまう核は、武器以上に強い武器――最早兵器そのものだ。核兵器とでも言うべきか。だからこそ司馬懿は元姫を危険だと認識し捕まえようとしているのかもしれない。
姜維は歪みに歪む視界を耐え、唇を噛み締める。蔡琰を下がらせ、陸遜へ手を伸ばし彼の胸倉を掴むとそのまま地面に押し倒した。抵抗はしなかった。
「毒が全身を回ったようですね。顔色が悪いですよ。でも、その状態で耐えられるのはあなたくらいですよ、伯約殿」
陸遜は姜維の唇に触れる。痛みが走り姜維は彼の上から退き、体勢を崩してはその場に座り込むように崩れ落ちた。
「姜維っ!」
蔡琰が姜維の前に立ち武器を陸遜へ向ける。彼はじっと蔡琰を見つめ、微笑みを携える。蔡琰は警戒し陸遜から目を離さなかった。
「早く、解毒した方がいいですよ。解毒薬は孫魯班殿が持っています。手遅れになる前に解毒したらどうですか?」
陸遜は背を向けて去ろうとする。姜維はしびれる身体で、朦朧とする意識で一つだけ問うた。
「何故、教える。殺したいのなら今、此処で殺せばいい。本当の狙いは別にあるんじゃないのか、伯言殿」
殺したいはず、それなら解毒の方法も教える理由はない。なら何故教えるのか。他に目的があるからだ。姜維は蔡琰の肩に手を回し、身体を預け問う。陸遜は一瞬曇った表情を見せた後、告げた。
「そうですね。では一つ、教えましょう。――神が失われたら人は指針を見失うと思いませんか? 私達も陛下が失われたら、きっと道に迷うと思います」
「一体何を――」
蔡琰は気付いたのか「まさか」と声を零した。
「き、さま……ッまさか、子桓様と劉備殿をッ!」




