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姜伯約の北伐政策  作者: はくりなのい
第四章 陸伯言の決断
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幻影の焔~陸伯言~

 未成年と言っても成長もしないこの世界の理では一生未成年のままなので、一生酒は飲めないままなのだが。姜維は陸遜に差し出された酒が注がれた酒器を見つめる。ほんのり葡萄の香りがする。葡萄酒だろうか。そういえば曹丕が好きだったなと思い出した。

「はい、是非。少し味を見てみますか? とても気に入ると思います」

 最初から味を見てもらおうと思っていたのだろう。陸遜は持っていた杯に酒を注ぎ、姜維に差し出した。葡萄のいい香りがする。が、酒は飲んだことがない。どうしたものか――と困っていれば蔡琰が助け船を出してくれた。

「すみません、劉禅殿は先ほど酒をたくさん飲まれて……」

「そうですか……それは仕方がないですね。一口だけでも飲んで頂きたかったのですが」

 陸遜は非常に落胆した表情を見せる。そんな顔をされると姜維も申し訳なくなる。それは蔡琰も同じだった。一口だけなら、いいだろう。

「では、一口だけ貰おう。すまない、酒をたくさん飲んできたのでな」

 姜維は陸遜から杯を受け取る。葡萄酒が杯に注がれており、月が僅かに映し出される。アルコールと葡萄の臭いが混ざり合い、香りを引き立てている。これが大人の味かと少し緊張しながらも杯を口につけては一口飲み喉を潤した。

 これは、意外と、美味しいかもしれない。

「どうでしょうか?」

「ああ、美味しい。流石陸家の酒だ。持ち帰って皆に振る舞うとしよう。感謝する、陸遜殿」

 だが、何だろう。舌に走るちくりとした痛みは。酒はこういうものなのだなと考えていれば突如吐き気がこみ上げてきた。姜維は胸と口を押さえ、苦しみを表情で訴える。

「ッ、劉禅殿!」

 蔡琰の声が聞こえたと同時に姜維は膝をつき、その場に血を吐き出した。大量の、血液を。服を汚すほどの血液は一種の凄惨な現場を見せる。元姫の力はすぐに失われ、姜維は陸遜を睨み上げた。これは、毒だ。瞬時に理解した。

「り、くそん――ッ!」

「――やっぱり姜維殿でしたか。あなたがいないという事は、本物の劉禅殿は部屋でしょうね。ご安心を、劉禅殿と曹叡殿は狙いませんので」

 何が狙いだ。いや、陸遜は初めから敵だったのだ。それを気付けなかったのは姜維だ。己に慧眼がなかっただけの話。劉備のように人を見る目はないのだ。彼の冷徹な目を見ながら姜維は口元の血を拭う。それでも口から血は吐き出されていく。蔡琰は腰に携えている半円に歪曲した剣を構える。

「私達を、騙していたのですか!」

「そう、なるでしょうね。すみません、これも呉のためです。呉のために伯約殿を殺さなくてはなりません。これが均衡を保つ唯一の方法です」

 血走った目で告げる陸遜。姜維は苦しみの中、数日前に元姫に聞いた話を思い出した。核に長年取り憑かれた人間や核の影響を受けた周囲の人々は、魂まで核が染みつき、本当の人格が出てくる事はない――。陸遜は、最初から核に囚われていたのだ。夷陵で劉備に敗走させたあの陸遜は、もう、いない。

「なら、一つ問おう。あなたが首謀者か?」

「いいえ、私ではありません。これは国家安寧のため」

「――孫権か」

 陸遜は何も言わなかった。苦しみだけが増していく。そうか、孫権は最初から劉禅達を狙っていたのではなく、姜維を狙っていたのだ。その理由は多分――未来をねじ曲げた事実だ。

「私達は平和でいたいんです。平和のために、呉のためならどんな犠牲も払います」

 その目には姜維も蔡琰も映し出していない。そこにあるのは呉のため、姜維を殺そうとする一人の狂った男の姿。姜維は咳き込み、血を吐き捨てた。

「偽善の上に立てられた平和か。そういうものは平和とは言わない。死体を積み上げた偽りの虚像と言うんだ」

 姜維はふらつく身体で、蔡琰に支えられながら立ち上がる。何枚も重ねられた重い衣服を脱ぎ捨て軽装となり、弁で纏めていた髪を取り去り腰下まである髪を風に靡かせる。

「だが安心するがいい、陸遜。私が救ってやる――本当のお前を、陸伯言を私が守ろう。これ以上お前がお前を穢すところは見たくない」

 陸伯言と言えば夷陵の英雄。蜀では劉備を裏切り、樊城で関羽を討とうとした不義者。そんな話で陸遜の名前は挙がっていた。魏に仕えていた時そんな話を聞いた。だから、少し興味があったし、蜀の大軍を追いやった陸遜を少し尊敬していたのかもしれない。聡明な知者の喪失は何万何千の兵士の損失にも勝る。どれだけ嘆こうと陸遜はもう、死んだのだ。

「優しいのですね、伯約殿。初めてお目にかかった時は根暗そうな人だと思いましたが」

「優しかったら、此処で貴様を倒そうなどと思わない。優しいのなら貴様を取り戻そうとするだろう。だが、私はしない。私は――彼女のように優しくはないのでな」

 元姫なら救おうとするだろう。だが不要だ。彼を元に戻すなんて時間のかかる事はしない。可能性のない馬鹿な事もしない。敵は敵でしかないのだから。

「だから、最後に聞いておきたい。陸遜、貴様は何処まで噛んでいる?」


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