幻影の焔~朱き足跡~
姜維は振り返らず夏侯覇の話を背中で受け止める。夏侯覇は目の前に居る劉禅が姜維だという事は知らない。言えば彼は顔に出るからだ。
「まあ、劉禅殿とですか?」
「はい、そのようで。姜維――姜将軍とお話をしたかったそうなのですが、将軍は今日不在ですし。……でもおかしいですね、あの将軍が陛下の護衛にいないなんて」
姜維と趙雲はこの場にいない――事になっている。二人は「別件で現在、呉の太守と会談している」という事にしており、何も知らない夏侯覇はそれを信じているのだ。
「忙しい方ですからね、姜維も」
「いや、アイツは忙しいというか、ただ動いておかないと落ち着かないだけですよ! 仕事馬鹿っていうんでしょうね、ああいう奴の事」
「あら、夏侯覇殿は姜維の事は苦手ですか?」
「蔡琰殿、聞いてくれますか!? あいつ酷いんですよ! 呉に出立する前、俺がちょっと月英殿と話していただけで睨んで来たと思ったら、珍しく“夏侯覇殿、ちょーっといいですか?"って丁寧に言うもんだから着いていったら腰を挟まれて、後方へ身体を反らせて頭を地面に打ち付けるんですよ! その後シメられましたし! だからアイツ未だに友達一人も出来ないんですよ!」
こいつ、シメていいだろうか。姜維はバレないように隣の侍女から果物を貰いそれを口へ運んでいく。蔡琰は微笑みを携えて夏侯覇の言葉を耳に入れていた。
「お前は魏から降って何十年経つんだよって話ですよ! 俺じゃあるまいし!」
「でも夏侯覇殿は姜維の事を親友だと思っているんですよね」
「そりゃそうですよ。俺がいないとアイツは四面楚歌ですから」
誰が親友だ、誰が。帰ったら本気でシメよう。今、決めた。絶対にシメよう。夏侯覇は悪寒を感じ身体を震えさせた後、周囲を見回す。そして安堵しては話を戻した。
「それで、陸丞相の件ですが……」
「そうですね。劉禅殿、如何致しましょうか」
一度会って調べるのもいいか。可能性は消した方がいい。姜維は蔡琰へ視線を向けて静かに頷いた。彼女は夏侯覇へ「お会いになるそうです」と返事を下す。
「では、俺がご案内致しますよ」
「いえ、私だけで平気です。夏侯覇殿は劉備殿の護衛を頼みます。劉備殿も呉の人間から狙われているという話を耳にしますし」
蔡琰の真っ赤な嘘である。義に厚い夏侯覇はそれを信じ、劉備の護衛へ戻っていく。蔡琰は趙雲に伝え、孫権の護衛にも報告し、戻って来れば姜維と共に部屋を出て行く。そういえば場所を聞いていなかった。何処だったかと廊下を歩いていれば、ちょうど陸遜が遠くからやって来た。姜維は口を開き、彼へ声をかける。
「すみません、劉禅殿。祝宴を抜け出させるような真似をしてしまって。伯約殿にお礼を言いたかったのですが、不在のようなのであなたに伝えさせて頂きます」
「それなら帰る前に伝えてあげて欲しいのだが」
「ああ、いえ、私は明日には建業を発ちますので、今日しか話をする機会がないのです」
すみません、と陸遜は申し訳なさそうに頭を下げる。彼が姜維を怪しむ事はない。姜維が劉禅の衣服を身につけている間は「劉禅」として認識するように、元姫が力をかけているからだ。だが、その効力は三メートル以内しか効力を発揮しない上に初めから姜維だと認識しているのなら通用しない。故に祝宴の会場ではバレてしまう危険があったのだ。
「そうか、わかった。伝えておこう」
陸遜は姜維への礼として様々な感謝を述べ一礼する。姜維はそれを眺めていた。
「劉禅殿、これをよろしければ伯約殿に。陸家で作った酒なのですが……彼は飲まれますか?」
「いや、姜維は未成年だからな。飲む事は出来ない。だが、せっかくの贈り物だ、こちらで貰ってもいいだろうか?」




