幻影の焔~呉の真実~
劉備は淡々とただ一言だけ吐き出した。それ以上の言葉を彼は言わない。その言葉にどれだけの重みが、責務が、感情が入っているかなど姜維にも、趙雲にも、諸葛亮にも理解出来ない。
劉備も曹丕もそして劉禅さえも元姫の気持ちは痛いほどわかるだろう。だがそれを許さないのが、許してはならないのが皇帝という責務だ。それは先帝とて例外ではない。国を乱し、民を不幸に陥れたのはどんな罪にも勝る。国は民が居てこそ成り立つ。だから劉備は、呉内の民をこれ以上悲しませないために、孫権達に罪を背負って貰う。苦渋の選択だろう。
「元姫殿、私はおぬしの気持ちがわからない訳ではないのだ」
劉備は椅子から腰を上げて、元姫の前まで足を進めては、彼女の肩に手を乗せ軽く腰を折って屈んだ。
「私とて最初から皇帝だった訳ではない。私は元々ゴロツキで、悪漢達を束ねていた悪ガキだった。仲間達に頼まれて私は乱世に叫びを上げたのだ。だから元姫殿が思う、殺したくない気持ちもわかる。……だが、処遇を決めるのは私じゃない。呉の人間なのだ」
私はただ例として挙げただけだ。そう告げる劉備だが、その答えはきっと正解なのだろう。誰も否定する事はなかった。劉備は姿勢を戻し元姫の肩から手を離した。
「核の影響だとしてもですか」
「たとえ核だとしても、民や他の官吏に核という存在がわかるはずがない。それとも全国民に説明するか?」
「それは……」
「出来ないだろう。すまぬ、元姫殿。耐えてくれ」
元姫はそれ以上何も言わなかった。蔡琰が彼女へ寄り添い、彼女を引き寄せて彼女の顔を己の胸へ押しつけるように抱いた。劉備はそれを確認すると椅子へ座り直す。
「……だが、どうするつもりだ、劉備よ。明後日には祝宴が始まる。そこで劉禅も叡も狙われるだろう。核が居なくなったとはいえ、それらの事件はまだ解決していない。太子廃立問題、孫権の暗殺問題はもう我々に関係はないが……」
「いや、曹丕。そうとも言い切れぬのだ」
曹丕は説明しろと視線を劉備へ向け、彼は諸葛亮へ説明を促した。
「曹丕殿、あなたは何故劉禅殿と曹叡殿が襲われると思いますか? 今三国鼎立の時代。平和を保ち、均衡を保つ時代。乱世など無縁の時代なのに」
曹丕は腕を組み数秒考える。だが彼の口から言葉は出て来ず詰まり、曹丕は眉間に皺を寄せて難しそうな顔を見せた。
「そう、本来なら意味がないのです。そんな事をしたら魏蜀に攻められる可能性しかありませんから。なら、何故呉はお二方を狙うのか――」
諸葛亮は羽扇を口元に沿えて目を伏せ、口を開いた。
「考えられる理由はただ一つ。その危険を負ってでも成し遂げなければならないものがある……という事です。なら、その危険とは何なのか――聡明な文帝なら既に検討がつくと思いますが、如何でしょうか」
「諸葛亮、貴様は懿(司馬懿)に聞いていた通りの性格だな。よかろう」
「お褒めに預かり光栄です」
曹丕は目つきの悪い瞳を更に鋭くすれば、腕を組み直し言葉を紡ぐ。
「呉は我らを怪しんでいるという事だろう。戦乱の時代に戻るのでは、と。不可侵条約を確固たるものとしたい。そのために劉禅と叡を襲い、身柄を得る事で交渉したいのであろう」
呉は平和主義――と謳ってはいるがそれは偽りの姿だ。呉の本性は平和主義の皮を被った過激派。平和を振りかざし、こうやって魏と蜀に刃を向く。だからこそ魏と蜀は戦という武力を振りかざさなければならないのだ。
「ご名答。呉は怪しんでいるのです、我らを。蜀は以前数年前に姜維が北伐し夏侯覇の部隊と戦った事により不可侵を破りました。そして魏は漢中へ進軍し、姜維・廖化の両名と戦を続けた――我々には不可侵条約を守る理由も何もないと呉は思っているのです」
正にその通りだなと曹丕は一言零し、彼の傍に居る蔡琰が彼を呼んでは諫める。魏蜀は不可侵条約など守る理由がない。自分の国が統一したいと考えている。それでも不可侵を破らないのは、今度こそ破れば両方から攻められる――それだけである。そのため、魏蜀は北伐をしようと思っていない。準備はしているが。
「私達がしなければならない事はお二方を守る事ですね、諸葛亮殿」




