幻影の焔~憎む神あれば、恨む神あり~
バイシューの瞳から涙が一筋伝う。それは止まる事を知らないように溢れ、彼女の服を濡らしていく。劉禅は姜維を見て合図を送った。
もう大丈夫だ、と。
その意味は恐らく“解放してやってほしい”の意味だろう。だが身を犠牲にしてまでに捕まえた相手だ。騙されている可能性もある。姜維は劉禅へ頷いた。理解したふりをしただけだ。
「劉禅殿」
趙雲が劉禅を呼ぶ。彼を育てていた時のように、諫めるように。劉禅はその場で涙を流すバイシューを宥めるように支えた。俯いているバイシューが、密かに嗤ったのを姜維は確かに確認する。
やはり、核は核だったか。
姜維は槍を握る手を振り上げる。だが遅い。バイシューは斬り落とされた腕の断面から滴る血を巧みに操り、蛇の如く動かせば劉禅を拘束し捕らえる。それだけで趙雲と曹丕の動きは止まった。姜維は己の腹を貫いているバイシューの手が、臓器に振れている感覚を密かに感じ取る。
「――わたくしとあなたを一緒にしないでくれませんこと? わたくしはあなたにみたいに愛されなかった人間じゃない。あなたは父に、劉備に見て貰えなかった。それは偏にあなたが塵でしかないからですわ! 劉備も思った事でしょうね、あなたという暗愚を、どうして長坂で捨てなかったのかと。いい気味ですわ!」
劉禅に巻き付けている血の蛇をバイシューは締め付けていく。劉禅の口からは僅かにうめき声が漏れた。
「でもあなたには利用価値がありますわ。劉備の息子、劉備の血を持つ――それは神の血を持つ事と同じ。劉備の純潔の血であれば、あなたの身体を使いわたくしが劉備の身体を得る時も遠くはないですわね」
「貴様っ、劉備様に、殿に指一本触れさせるものか!」
趙雲は一歩踏み出すが、曹丕に制止をかけられ足を止めた。
「趙子龍、動かない方がいいですわよ。動くと、劉禅も、そして姜維もわたくしが殺します」
「く……ッ、卑劣な」
「では取引致しましょう。――皇帝の命(劉禅)か、はたまた核を倒した事のある将兵の命(姜維)か。助けられるのはどちらか一つ、さあ趙雲、曹丕、選んでご覧なさい」
時間はたっぷりありますものね。バイシューは綺麗な紅が塗られた口角を釣り上げる。
さて、どうしたものか。姜維は数秒悩み、頭を回転させ情報を整理していく。目下姜維達の目的は、核の回収。それには元姫が生き返る事が条件。それをするには、元姫の力が必要だ。
以前、姜維は死んだ事があった。それは元姫が力を与えてくれたから、生き返る事が出来た。そうでもしなかったら核に勝てなかったというのもあるだろうが。
方法としては一つ。元姫にこの力を注ぎ込む。
その方法は勿論不明である。だからこそ、姜維は賭けたのだ。バイシューと繋がりを持ち、彼女の力を媒体として使う事によって元姫を助けられるかもしれないと。
それ以外に、方法がない。
それ以外に、元姫を救う方法など見つかりやしないのだ。
「――バイシューよ、貴様は随分余裕なのだな」
曹丕は煽るような言葉を告げる。その瞳は揺れていない。勝利を確信している瞳だ。ああ、そうだ、あの瞳はいつも揺れる事はない。
「あら、あなた達こそ急いだ方がいいのではなくて?」
「既に勝利を確信しているか」
「ええ、もう勝ったも同然。元姫がいない今、わたくしは負ける事なんてありませんのよ。人間では、出来事をねじ曲げられないですし」
出来事をねじ曲げられない。そう、人間は未来も過去も変えられない――。だがその単語は最近何処かで聞いた事があった。
――あなたはこれから核に狙われる。運命を書き換えた者として。筋書きを書き換えたあなたの血肉を食らえば、核は人として生きる事が出来る。筋書きを書き換えられる。
運命の書き換え、即ち出来事の改変。ジエジンと戦った時、姜維は死ななければならなかった。だがそれを元姫が変えた。元姫が姜維を生かした。
ならば、今度は姜維が元姫を救う番。自身の死すら変えてしまったのなら、元姫の死すら乗り越えて見せる。
「我々が何も用意していないとでも?」
曹丕は静かに、怜悧な声を発する。




