幻影の焔~歪なる妄執は何処へ行く~
――同時刻、成都。
呉からの使者が成都へやって来た。姜維が孫権の妻・歩練師を殺害しようとした、そのため処断する許可を頂きたいとの事だった。だがその前に趙雲から竹簡が届いており、姜維は核によって嵌められたとの事だった。放っておけば姜維は殺されるが、それは趙雲達が遮る。
問題は太子廃立である。
核が関わっているとなれば均衡は崩れる。孫権はまだしも、呉の民が可哀想でならない。それに太子廃立問題は既に避けられないところまで来てしまっている。もう、孫和と孫覇が帝位に就く事はないだろう。そして孫権も此処まで呉を衰退させて、皇帝は続けられまい。
「呉へ向かう。孔明、馬超と馬岱を呼んでおけ。孝直(法正)にはしばしの間執政を任せる――と。費禕、蒋琬には孝直の支援をしろと伝えろ」
「了解致しました、我が君」
諸葛亮は玉座の間から出て行き、劉備は出立の準備を始める。やる事は呉の民を救う事。孫権を救うのではない。民を救うのだ。そう言い聞かせ、劉備は椅子から立ち上がる。
「……曹操の二の舞にならぬようにな、孫権」
徐州大虐殺、忘れた訳ではなかろうに。
劉備は遙か昔の事を思い出しては、後悔した。そして決めたのだ、曹操に打ち勝つと。それも今や詮無き理想と成り果てたが。数分待てば武装した馬超と馬岱がやって来る。二人は劉備の前で拱手し、劉備は頷く。
「私の護衛を頼む。諸葛亮と共に呉へ向かう」
「はっ、玄徳殿の身体に傷一つ付けさせん!」
「うむ、頼んだぞ。馬超、馬岱」
劉備は二人を伴い玉座の間を出て行き、城の入口で諸葛亮と合流するとそのまま呉へと向かう。呉へ足を踏み入れるなど、思ってもいなかった事だが。しかし、己が向かう事で争いが混迷化しなければいいが――と劉備は密かに不安を抱いていた。
呉へ着いたのは蜀を出発して数日後だった。公で来ているわけではないが、呉へ竹簡を送らない訳にはいかない。諸葛亮は既にそれを手配していたらしい。建業へ着くと、呉の官吏達に出迎えられ、劉備は城へ案内される。尚香が来なくて良かったと密かに安堵した。城へ着けば盛大な接待をもてなされ、飽き飽きしつつもそれを受けた。先帝を接待するにしては些か小さなものだなと思いながら。そしてやっと解放されたのが夜になってからである。馬超と馬岱には荷物と兵士達を頼み、諸葛亮だけを伴い趙雲達の元へ向かう。
「我が君」
「うむ。……国力低下は免れんな」
操られているような呉の人間達。孫権が姜維に毒殺されかけたというのに、この待遇。おかしい。一先ず話を聞いてみるしかないかと劉備は趙雲達が居る部屋へ向かう。兵士達は劉備の顔を見るや畏れたような顔つきとなり、荘厳な扉を開け放つ。
「と、殿ッ!」
劉備を確認した趙雲は即座に拱手し跪く。劉禅は申し訳なさそうな表情で顔を逸らし、黄皓は僅かに不快感を示した。
「すみません、父上の御手を煩わせる事になるとは……」
「構わぬ。核が現れたとなると、どうせ来る事になるだろうとは思っていた」
劉備は劉禅の頭を僅かに撫でては、拱手している元姫に視線を向ける。事情を求めれば、彼女は全て話してくれた。
「なるほど、姜維が。それで禅を囮に元姫殿と蔡琰殿が策を展開し、曹丕が姜維を助けに行くと。……うむ、いいのではないか? だが、私達はともかく、おぬしらは立場が悪い。呉の人間も簡単に外へ出歩かせたりはしないだろう」
「はい、それをずっと考えていました。今、私達には呉の見張りがついていますので、それを遮るために囮として劉禅殿に……」
諸葛亮は元姫の言葉に目を細めた。彼は羽扇の奥で口元に弧を描く。
「孔明」
「はい。……まず、劉禅殿は城から内密に抜け出して貰います。黄皓と共に建業内を歩き回ってください、見つかっても構いません。あなたの支援は馬超と馬岱にさせましょう。元姫殿、蔡琰殿は劉禅殿が勝手に抜け出してしまったと触れ回ってください。呉の目を劉禅殿へ向かせます。趙雲殿は呉内部で劉禅殿の嘘の目撃情報を触れ回るのです。そして曹丕は、姜維を助けに向かってください」
ああ、核を誘き出す策は任せます、と策を提示する諸葛亮。相変わらず、引退してもその知謀は衰えていない。流石、というべきところだろうか。姜維もこの知謀を継いでいたらと思うがそれを今考えても仕方がない。
「いいだろう。諸葛亮、貴様と劉備はどうする」
「私達は呉の客人ですからね。勝手に動くと、逆に策が崩れます。それに我が君はそこに居るだけで人が寄ってくる。人寄せ白熊猫ですから」
人を餌みたいに言うんじゃない。劉備は諸葛亮の頭を叩き、彼を黙らせた。だが何も出来ないのは心苦しい。途中から来たのだから何か手伝いたいとは思うが。策が決まり、元姫達、趙雲、劉禅は部屋を去って行く。残った曹丕は劉備を見て、告げた。
「劉備、貴様はいつだってお人好しだな。父上が見ていれば、貴様をそうこき下ろすだろうに」
「曹操と私は違う。私は曹操のように冷徹にはなれぬ。私には、民を虐殺なんて真似出来ぬ」
「父上もそれは後悔していた。唯一の失敗だったと」
そりゃそうだろう。そのせいで、曹操の仁徳は地に落ちた。反乱をしないように男を殺した。川が死体で埋まるほどに。そのお陰で、民は劉備を選んだ。曹操に殺されると判断した。曹操の失敗はそれだけではないが、劉備が曹操を好きになれない理由の一つでもある。
「曹丕、貴様が曹操のようにならぬ事を私は祈る」
「安心するがいい。私は、父上とは違う。私が作る魏は、父上のようにはならぬ。――貴様も姜維に気をつけるといい。あれは、亡霊に成り果てるだろう。……貴様とて、殺すかもしれない。そういう男だ」
姜維の兄弟子からの言葉だ。頭の片隅にでも入れておくといい。
それだけ言い残し、曹丕は部屋から立ち去る。姜維の危うさは劉備も知っている。それを抑えられるのは生きている今だけだ。居なくなれば――いや、今は止そう。劉備は椅子に腰掛けると彼らの帰還を待つ事にした。




