幻影の焔~歩練師~
「本来ならこの祝宴も魏のように先帝も数年に一度くらい来るのが当たり前。ですが劉備殿は一度も来ない。それを尚香殿は納得がいかないのでしょうね……でも賄賂を渡したとなれば、尚香殿の事ですから何か大きな事を考えていそうな気はしますが」
大きな事、余計な事を起こさないで欲しい。今でもわからない事だらけで、更には劉禅が骨抜きにされているし、それに加えて孫権の暗殺やら太子廃立争い――。溜め息の出るような事ばかりだ。まあ後者は放っておきたい気分である。
「気をつけるに超した事はないでしょう。気をつけます」
「はい、ああ、それと孫権殿の暗殺の事なのですが……――」
足音が響き蔡琰は口を閉ざす。姜維は彼女の腕を引き、柱の影に隠れた。すれば出て来たのは練師である。虚ろな瞳、表情、正常ではない顔だ。これが魯班の言っていた事なのだろうか。姜維は蔡琰と共に彼女を追いかける事にし、あくまで散歩をしているふりで歩く。此処は呉の領内。そして二人は招かれて来ている。隠れて追うより、堂々と歩いて追った方がいい。姜維と蔡琰は距離を練師から離し、ゆっくりと歩いて行く。周囲の見張りに徹している兵士も、堂々と歩いている姿に何も言わなかった。いや、それより、練師が一人で歩いている姿に何も言わない。それが一番おかしかった。
五分ほど歩いて彼女が訪れたのは自らの屋敷だ。誰もが中宮と呼ぶ屋敷である。厳密には彼女は皇后ではないが。何だ、何があるのだろうか。そう思って屋敷の敷地内に入り、木の陰から練師を見守る。
だが練師は庭の中央で足を止めた。ただじっと、虚空を見つめ続ける。彼女の様子に、見張りの兵士も、屋敷で動いている侍女も彼女を気にかけようとしない。まるで、そこに居ないとでも言うように。気味が悪かった。
「蔡琰殿は、どう見ます?」
「そうですね……何か、人ならざる者の感じが――ッ姜維!」
突然、蔡琰が覆うように姜維を抱き締め、二人はそのまま地面へ倒れる。背中を強打し、痛みに悶絶すれば目の前に広がるのは赤。彼女の身体はいつの間にか血に染まっていた。僅か、瞬きの間、姜維が悶絶している間――彼女の身体には件で斬られたような傷が多数。
「ッ、蔡琰殿!」
「誰!?」
しまった、声を出しすぎた。練師に気付かれてしまい姜維は蔡琰を抱きかかえる。身を隠す場所は――近くにはない。次第に焦りが見えた。練師にバレたら、孫権に報告され、処断――ではないが蜀にいる諸葛亮や劉備に迷惑をかける事は必須。だが、腕の中の蔡琰の手当てが優先だ。姜維は下ろしていた腰を上げた。
「あら、あなたは……――ってその方は!」
「その、説明は致します。ですが、まず――」
「何やってるの! 早く手当てしなきゃ!」
こっち、屋敷に入って。練師に招かれ言葉を返す暇もなく彼女へ着いていく。無駄な心配だったかと蔡琰を抱きかかえつつ、一室に案内される。寝台に蔡琰を寝かせれば、やって来た侍女達。女性の手当てだから外に居てと姜維は外へ出されてしまった。
謎の攻撃、姜維は全く気付かなかった。だが蔡琰は気付き、姜維を守った。後で彼女にお礼と、曹丕に謝罪をしなければならない。
蔡琰は許昌に来る、異民族の男と無理矢理結婚させられ、それを哀れんだ曹操によって魏へ連れて帰られた。それ以来、彼女は曹操庇護下の元、官吏達の子供を育てる養母の役割を担っている。姜維も彼女に育てられた。その繋がりで、今も彼女は曹丕の護衛をしている。だから普通の女よりは強い。しかし、何故彼女は、何処から攻撃されたかもわからない攻撃に対応出来たのか――。姜維は腕を組み考える。だが答えは出て来なかった。
十分、二十分ほど経った頃だろうか。侍女達が部屋から出てくる。中から練師に呼ばれ足を踏み入れれば蔡琰は身体を起こしていた。姜維は蔡琰の傍へ向かう。
「蔡琰殿、お怪我は……」
「申し訳ありません、姜維。少し驚いて気を失ってしまったようです。怪我は深くないので安心してください」
蔡琰は頬や手に清潔な布が撒かれ、血が滲んでいた。服も着替えてはいるが右腕から見える手当てが痛々しい。姜維は俯き、謝罪の言葉を零せば蔡琰から手を伸ばされ頭を撫でられる。
「姜維、私はあなたを守りたくて自ら怪我をしたのです。あなたが謝る事はありません。私は、あなたが苦しむ事の方が辛いです」
「……蔡琰殿」
顔を上げれば蔡琰はいつも通りの優しげで柔和な微笑みを漂わせていた。
「練師殿、ありがとうございます。そして、勝手に着いてきてしまって申し訳ありません。あなたの行動が、気になってしまったのです」




