結晶の囚人~凡夫な皇帝~
「……――殿、……い殿、――伯約殿!」
「ッ――!」
耳元、息がかかる距離。突然耳元で叫ばれ、字を呼ばれ、茶髪の青年、姜維は机に伏せていた身体を跳ねるように起こした。怠けきっていたためか、解いていた髪が散らばるように揺れた。何だ、と煩わしく目の前に立つ女性、王元姫に目を向けた。絹のような白い髪を後頭部で纏め、黒曜石そのものと言ってもいいくらいに美しい瞳で姜維を射抜く。高価な布を多数巻き付けているような服は、彼女が着用するからこそより一層美しさを際立たせているように見えた。彼女のためにあるような服だ。
「陛下がお見えよ、姜維殿」
「なん――」
「勝手に来て悪いなあ、姜維」
元姫は目の前から姜維の隣へと移動し、ゆったりと間延びしたような声の主が現れた。女官と役人を一名ずつ連れて。皇帝の帽子である冕冠をかぶり、煌びやかで華やかな衣服を纏う青年。姜維より少し年上の皇帝、劉禅は笑みを絶やさずこちらへ一歩一歩と歩み寄る。それを見ずとも姜維は反射神経の如く、すぐに乱れていた服を纏め、腰下まである茶髪を適当な紐で結ぼうとしたが、見かねた元姫が「私がやるわ」と姜維の髪の束を取り一瞬で結び、服も正してくれた。
「元姫殿は姜維のお姉さんみたいだなあ。元姫殿に姜維を頼んでよかった」
「私も姜維殿に救われた身ですので」
「どうだ、護衛の仕事は順調か?」
「はい。ただ彼が仕事に集中しすぎて食事をしない事が気がかりですが」
「む、それはダメだぞ、姜維。ご飯は食べないと動けなくなる。ああ、そうだ、今度酒宴を開こう。姜維はどんな酒が好きだ? 取り寄せておこう」
花の咲いたような笑みを漂わせる己の君主、劉禅。気遣いと優しさ、それでいて何処か掴めない主君。姜維や元姫が戦で出兵している間、宴を盛大にやっていると聞く。その理由は劉禅なりに考えているのだろう。だが周囲は彼を暗愚だと、凡愚だ、何だと言う。姜維にはそう感じられないが元姫には何かわかるようだ。
それもそのはず劉禅の父は誰もが知り、憧れ、尊敬し、神のように崇め、神のように愛されている劉玄徳なのだから。ならば当然、劉禅にも劉備のようになれと期待が襲い掛かる。だが劉禅は劉備ではない。例え父が素晴らしい人間でも子がそのようになるとは限らない。その逆もまた然りだ。
「主公、お気遣い痛み入ります。ですが私はそういう席は苦手でして……」
「おお、そうか、それは残念だ……では姜維、何が欲しい?」
「では漢中に、兵を五百ほど欲しいのですが」
「む……軍事はわからぬからなあ。黄皓に相談しておこう」
「……、はい、よろしくお願いします」
姜維は一瞬だけ笑みを崩し眉間に皺を刻みつける。が、すぐに微笑みを貼り付けた。
「元姫殿は蜀に慣れたか? あなたの国と違って蜀は少し貧しいが……」
「はい、とても素晴らしい国で落ち着きます。皆さん優しいですし、私は満足しています」
「そうか、それは良かった。あなたはとても別嬪だから夫のいないこの地じゃ不安だろう。何でも言って欲しい、出来るだけ支援しよう」
「はい、ありがとうございます。劉禅様」
元姫は少しだけ晒されている胸元に手を添えて軽く一礼する。そう言えば彼女は夫が居るのだったなと姜維は改めて思い出した。劉禅は窓際へ足を進め、窓の外からこの成都を眺める。その目に何が映っているのか、姜維も、元姫も、知る事が出来ない。
「先帝が――、父上が引退をなされて幾年、父上のご威光でこの国は建っている。父が帝位を引退しなければ私は一生父の影に隠れて居られたのだがなあ」
「……主公。主公は、先帝に……劉備様に戻って頂きたいと?」
「む、そうだなあ。父上が帝位に戻れば私は遊んで居られるからなあ。……ああ、でも、今でも一緒かもしれないなあ。あれをしろ、これをしろ、私は言われた通りにやっているが、父のように出来ているかは、わからぬ」
そう告げる劉禅の横顔は何処か、儚げの影があった。
数年ほど前、劉禅の父、劉備は帝位を退いた。劉備は何の権力も持たぬ流浪者から君主までのし上がった英雄だ。その名を聞けば誰もが劉備への愛を語り出すほど。誰よりも愛されている神の子と言える。だがその劉備も、夷陵で隣国孫呉と大きな戦をし、疲労と心因性の病からまともに仕事を行えなくなり、帝位を退いたという。その頃姜維は蜀に居なかったので詳しい事は知らない。
「劉禅様、あなたが劉備殿の、先帝のようにする必要はございません。劉禅様は劉禅様の思う「平和」を描けばいい。民のために、国のため、誰かのため――そのような国作りを行えばいいのです」
「元姫殿、あなたはいつだって聡明だなあ。あなたの夫になりたいくらいだ」
「最上の褒め言葉です、ありがとうございます陛下。ですが私にはもう正室は居ますので」
「口説いていたらあなたの夫に叱られそうだ」
劉禅は冗談のように笑みを漏らす。それが冗談なのか、本気なのか掴めないのが彼の恐ろしいところかもしれない。先日蜀へやって来た元姫もわからない。
「それで、主公、私になにか用事があったのでは?」
姜維の仕事部屋を訪れたという事は何かあったのだろう。そう思いながら劉禅に尋ねてみる。彼は口元に左手を沿えて「何だっただろうか」と少し悩ませた後、軽く手と手を叩いて「ああ、そうだった」と思い出したように笑った。