幻影の焔~一筋の道~
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「俺の名前は姜奉考。あの蜀の将軍、姜維の同族です。と言っても、関わりなんて殆どないし、会った事もないんですけどね」
男、姜奉考は鼻の下を人差し指で擦った。そういや、親戚で呉に降った者がいると幼い頃に聞いた事がある。彼の事だったのだろうと姜維は理解した。奉考は姜維達と一緒に席を囲み、首筋を元姫に手当てされながら話を続ける。
「あ、あと別に俺孫覇の部下じゃないです」
「ああ、それは知ってる」
「さっすがアニキだぜ!」
「貴様、一度自分が言った事思い出した方がいいぞ」
ただの馬鹿か。外れを引いた気分になった。まあ、まだ外れと決まっている訳ではない。そう自分に思い込ませる。
「俺は、陸丞相の小間使いみたいなもんで、よく色んな人のところに使者として赴くんです。陛下がおかしくなる前、俺陛下と会ってるんですよ。奥方の歩練師様に竹簡を届けに向かっただけなんですけど」
「それは、本当なの?」
「へい。そもそも、おかしくなる前、陛下は側近なんて殆どつけてなかったんすよね。ほら、陛下って元々戦場を駆け回っていた人ですし。ずっと一緒に居た人は、歩練師様くらいじゃないすか? だから練師様が毒殺で疑われたんすけど、あの人の人間性を知っている人ならそんな事をする人じゃないので、議論もばかばかしくて止められたそうで」
歩練師。嫉妬を知らぬ性格で、孫権に一番寵愛されている側室である。故に誰もが彼女を皇后と呼ぶそうだ。姜維が考え込んでいたら、奉考が姜維の酒を勝手に飲んでいたので顔面を一発殴っておいた。
「孫権がおかしくなる前、何か変わった事なかったの?」
「そうっすね……」
奉考は腕を組んで考え、あまり覚えてないっすけど――と切り出した。
「まるで人格が変わったような言動はありましたね。歩練師様から凄く心配されていて……練師様にも強くあたるところとかあったんす」
「歩練師殿にあたる、か……考えられん事だな」
歩練師は孫権から他の側室や、正室よりも愛されている。そのため、彼が練師にあたるなど有り得ない事。だが、有り得ない事は有り得ないとも言うし、有り得るのかもしれない。呉の内情に詳しくはないためわからないが。陸遜が居ればわかったのだろうか。
「はい、そうなんすよ、アニキ。陛下は練師様を凄く愛していらっしゃるから、有り得ないんですよね。練師様も当たられた時凄く驚いた顔をしていて」
「その歩練師殿は今何処に?」
歩練師――彼女に聞けば何かわかるだろうか。こうやって回りくどい事をするよりも、その方がいい気がする。しかし彼女は孫権の妻。無闇に近付いて孫権の怒りは買いたくない。
「中宮っすね。……あ、いや、歩練師様が生活しておられる屋敷っす。でも、俺やアニキみたいな奴は会えないっすよ」
「役人でないからか」
「いや、陛下が練師様を政争に関わらせたくないとの事で、今政争に関わっている奴は会えないんすよ。だから陸丞相も会えなくて、俺みたいな官位も何もない小間使いを雇っているって訳っすよ」
「陸遜も会えないとはな」
愛ゆえの事だろうが、孫権の子供が政争を起こしているのにそれを黙ってみているほど女は弱くない。姜維は口元に手を添えて考える。
「ねえ、奉考殿、あなたからその練師殿に仲介してくれないかしら」
「んー……じゃあ、アネさん、俺と一発閨の相手を――」
姜維は右拳で奉考の眉間に裏拳を放った。奉考はそのまま椅子から崩れ落ちる。
「元姫殿は私の護衛だ。手を出したら貴様をひん剥いて、尻を犯させるぞ。馬に」
「アニキあんた笑わないから冗談に聞こえないんすよ! しかも裏拳とかひっでえな!」
「私は本気だが」
ちょっとアネさんの魅力に落ちただけじゃないですか、と奉考は眉間から血を流しつつ立ち上がっては椅子に座り直した。
「まー……練師様の仲介は俺じゃ無理っすね。どうせなら忍び込んだ方が早いっすよ。アニキ、男か女かわからない面してるし、アネさんと一緒に忍び込めるんじゃないすか?」
そんな事をしたらまずバレた時に説明が面倒だ。しかし、一理ある事は確かだ。顔に対する言動は許す事が出来ないが。姜維は腕を組み眉間に皺を寄せては頭を回す。
「でも何でそんなに陛下の事を? アニキも誰かに頼まれてるんすか?」
「……“も”って何だ」
奉考は姜維と元姫を招くように手を上下させる。姜維と元姫は奉考に顔を近づけた。
「いや、此処だけの話……孫和派と孫覇派が争ってるから、あいつら民の中に役人を紛れ込ませて情報を抜き出そうとしているんすよね。先日魏からの使者が斬られたそうですし」
「つまり、こんな市井では得られる情報も限られているという事かしら」
「そうっすね。まず本当の情報なんてどれかわからないと思うっすよ。それこそ、高官じゃないと。最近は呉も不穏で、魏や蜀に移住を考えてる民も少なくはないっす」
姜維は姿勢を戻し、頬杖をついて考える。人格が変わったような言動、行動――核の線も拭いきれない。かといってこんな市井じゃまともな情報なんて見つからない。
と、なればやる事は一つだ。
「決めた。孫家の縁戚に会いに行く。その方が手っ取り早い」
「睨まれるわよ、そんな事をしたら」
「わかっている。が……私達が動けば、曹丕達も動きやすくなるだろう。主公へ向けられる刃もこっちへ向く。そしたら後は私が倒せばいいだけだ」
どう言っても聞かなさそうね。元姫の呆れを聞きつつ、姜維は元姫から手渡された彼女の杯を受け取っては酒を飲み干した。
「孫家の人間に会いたいのなら孫魯班殿を勧めるっすよ。あの方、孫覇派で一定の権力を持っていて――ッ」
姜維は奉考の胸倉を掴んではそのまま椅子から引きずり下ろし、杯で背後からの攻撃を受け止めた。元姫は声をかける必要もなく、自ら地面へ移動していた。姜維は割れた杯の破片を手に取り男へ突き出す。男の口元が切れ、口が裂けた。右腕を掴まれ引き寄せられるとそのまま机へ叩きつけられる。




