幻影の焔~二宮の変~
陸遜は杯に注がれた茶を飲んでは喉を潤す。
太子。それは次の皇帝となる男。基本的に長男が立てられる。劉禅然り、曹丕然り、長男であったから太子となり皇帝となった。だが例外も存在する。
「数年ほど前から陛下はおかしくなりました。気に入らない者を処罰し、気に入った者は能力がなくとも高官へ取り立てる。……耄碌したのだ、と当時は誰もが囃し立てました。そのため、私も陛下に進言したのです。“太子を立てるように”と」
「それは、具体的に何年ほど前かしら」
「私は、そこまでは……私が荊州から戻った時には既におかしかったので」
元姫は「そう」と一言漏らし何かを考え込むように目を伏せた。もしかして、核だろうか。
「そして陛下は太子を立てられました。それが孫和様です。それだけなら良かったのですが、次第に寵愛が孫和様の弟君、孫覇様へ移り、孫覇様もまた太子に立てられようとしています。それで今、廃立争いが呉では進んでいるのです」
「兄弟で廃立争いか。何処かで似たような事を見た光景だな」
お前とお前の弟だろうが。と姜維は曹丕に内心突っ込むも面倒なので口には出さなかった。今はそんな事重要ではない。
「当時は魏のように、子桓殿と弟の曹植殿のように周囲だけが争っている形でした。しかし、周囲の言に惑わされ本人達も争いに荷担し、混迷を極めています。更に、周りが陛下に嘘を告げ、陛下もそれを信じてしまい……今、双方の様々な有能な人材が処断されています」
「呉帝が真偽を定められればよいのですが……それも今、不可能なのですね」
蔡琰は右胸に手を添えて、同情の顔色を見せる。彼女の言葉に「その通りです」と陸遜は呆れたような、困ったような顔で頷いた。
そもそも呉帝・孫権が正常な判断があればこんな廃立争いなど起きなかっただろう。原因は孫権。その孫権が正常な判断が出来ていないという事は。
「そして、二ヶ月前、陛下への暗殺未遂が起きました。飲み物に入った毒薬で陛下は暗殺されかけ、意識不明の重体に陥ったのです」
「毒殺……。内部からか?」
姜維の質問に陸遜は「それすらもわかりません」と目を伏せる。痛ましく、悩ましい顔をする陸遜に姜維は蜀と被せた。
「私はその時荊州に居たもので……」
「だが孫権殿を毒殺しようなんて……考えられるとするならば、近しいものだが」
「はい、伯約殿の言う通りです。魏や蜀ではと噂もされていますが、魏と蜀が陛下を暗殺する理由が今はありません」
「そうだな。呉帝を殺したところで利益など見込めない。曹叡殿ならまた別だが」
繕う事をせず正直に告げた言葉に陸遜は苦笑し、隣の元姫からは頭を後ろから手で叩かれた。小気味いい音が響き、姜維は机の下で元姫の右足を踏みつける。彼女が痛みで悶えているのにも気にせず、何でもない顔で陸遜の言葉に耳を傾けた。
「可能性がある者はいないのですか?」
「調べてはいますが……可能性があるとすれば姫様、奥方様達、陛下のご兄弟……と近親ばかりです。しかし、我々も一つ調べるのに命を賭けなければなりません。故に手をこまねいている状態なのです」
蔡琰への答えに姜維はそりゃそうかと心中で納得する。孫権が判断を見失っている以上、迂闊に近親者へ尋ねて、それを不快に思う者が孫権へ報告すれば殺される。処断される者が多い以上、迂闊には動けない。
「それで、私は陛下の妻、歩練師様に魏への竹簡をしたためて頂きました。恐らく文帝の目に入り、蜀の劉備――……失礼、昭烈帝と連携するだろうと考えました」
「なるほど、伯言殿は私達と子桓様達の連携を読んでいた訳ね」
「いえ、初めから読んでいた訳ではありません。連携をしない場合は、私自らこうやって集まって頂きお話する予定でしたから」
流石夷陵で劉備を追い詰めただけはある。丞相という役職も伊達ではない。姜維は陸遜を見据えてから、杯の茶を飲み干した。うん、美味しい。
「くどい。そろそろ本題に入れ、陸遜。私達は暇じゃない」
曹丕の不遜な態度に陸遜は端正な顔を少しだけ歪めた。隣の蔡琰も「子桓様」と彼を少したしなめる。
「……本題は、お話した通り――あなた方に協力をお願いしたいのです。あなた方に利益がない事くらいわかっています。陛下の暗殺と廃立争いを止めるために、情報を探って頂きたく思います」
確かに利益はない。呉が政争で争っていても蜀と魏には関係ない。寧ろ争って、滅びてくれれば不可侵条約を堂々と破れ、また北伐が出来る。今、そんな事をすれば二方向から攻められかねない。諸葛亮にも「今は耐える時です」と言われ、姜維は我慢しているが。
いや、待てよ。
姜維は口元に手を添え、曹丕と陸遜が話をしているのを耳に入れながら考える。呉に恩義を売っておけばこれから役立つ。つまり、いつか、北伐が出来るようになれば――。姜維は瞬時に陸遜の手を握り、陸遜相手には絶対浮かべない笑みを見せた。
「お任せを、陸遜殿。この姜伯約、呉を救ってみせよう」
「ほ、本当ですか、ありがとうございます!」
「その代わりに解決したら叶えて頂きたい願いがあるのだが」
「はい、もちろんです。私に出来る事なら!」
疑いのない黒い瞳。安堵した瞳を向けられ、姜維は少し良心が痛んだ。やましい事をするつもりはない。将来、遠いのか近いのかわからないが、将来戦を仕掛けて貰うだけだ。陸遜の手を離し、姜維は数回咳を漏らす。
「では、まずは今後について説明致します。明後日から祝宴が開かれますが、政争は水面下で続いております。まず曹丕殿とお付きの女性の方には陛下暗殺の方を探って頂きたい」
「なるほど。私が探れば、呉の人間は文句も言えぬという事か」
流石、陸遜だ。曹丕は腕を組み挑発するような目を向けた。呉内部で曹丕が孫権の暗殺を探る。呉の将兵達は不満を募らせるだろう。が、曹丕が探るというのなら呉の将兵も文句は言えないし危害も加えられない。
「はい。初代皇帝のあなたが探るのです。もし、危害を加えようものなら――乱世に戻りますから。お願いしますね」
「よかろう。だが勝手にやらせて頂く」
「はい、構いません。……そして伯約殿と元姫殿には政争の方をお願いしたいのです。目的としては若君……孫和様を太子に、陛下には孫覇様を立てないよう……。それが今一番波風の立たない方法でしょう」
つまり、元に戻す。孫権に進言し、孫和をそのまま太子とするようにと。外部からの進言であれば孫権も耳を傾ける可能性はある。だが、孫権に近い場所となるため襲われる可能性は高い。暗殺を防ぐ手立てにはなるか。




