幻影の焔~朱き丞相~
「姜維殿……」
そもそも曹丕は冷淡で有名だ。我が子でさえも道具のように扱う。曹叡を見ればわかる事だ。そもそも先帝でありながら皇帝を蔑ろとし、国を己が動かしている。漢室とは少し違うが、息子の曹叡はいい気がしないだろう。
まあ、魏の人間でないため別にどうでもいい事だが。
姜維は顔を上げて目前に見えた建業を見据える。
孫呉。夷陵の地で劉備に大打撃を与えた男が治める地。劉備は夷陵で受けた傷が元で病を患ったらしい。それ故、蜀の人間は孫呉にいい印象はない。
建業へ入ると、門前まで迎えとしてやって来たのは孫権の妹であり、劉備の妻だった孫尚香と丞相・陸遜である。二人の背後には十数人の兵士達。姜維達が馬を下り、劉禅が馬車の籠から出ると二人は拱手する。姜維達も礼として拱手を返した。
「お待ちしておりました。蜀の皆々様。我が名は陸伯言。そしてこちらは――」
「禅! 会いたかったわ!」
「あっ、姫っ!」
黒髪を後頭部で纏めている女性、尚香は陸遜が呼び止めるのも聞かず劉禅を強く抱き締めた。その様子に蜀の兵士、黄皓までもが不快感を顔に示す。
だが一番敵意を表わしたのは趙雲だった。護衛の趙雲が槍を持つ手に力を込めたのを姜維は目に留める。趙雲は二人を引き離すと、劉禅の前に立った。
「お久しぶりでございます、奥方様――いえ、尚香殿。お変わりない様子で。……だが、陛下に抱き付くとは何たる無礼。控えられよ」
「相変わらず固い男ね、だからモテないのよ。いいじゃない、禅は私が育てたようなものなんだし」
尚香は頬を膨らませて趙雲を見上げる。可愛らしい仕草ではあるが、そんな行動趙雲には全く意味を成さなかった。真面目で忠実、主の命を一番に考える趙雲は鋭い瞳で尚香を見据える。
「たとえそうであろうとも、劉禅様は一国を治める主。――これ以上無礼を働くなら、我々は呉に対して戦を仕掛ける事も辞さないが」
「わ、わかったわよ。冗談が通じない男ね」
尚香は数歩後退し、背を向けると門を通り抜け城への道を侍女達と共に歩いて行く。劉禅は再び籠へ乗ると、呉の兵士に導かれ建業の城へと向かっていった。
「姜維、曹丕殿。私は劉禅様につく故、そちらは任せる。劉禅様の身はこの趙子龍に任せて頂こう。傷一つつけさせぬ」
「はっ、お任せください、趙雲殿」
趙雲は「頼んだぞ」と言葉を零せば、残っていた呉の兵士と共に劉禅を追っていく。趙雲が見えなくなるのを確認すれば、一先ずどうするべきか頭を回す。
そもそもこれは劉禅を守るためのものだ。が、政争がどうなっているのか、事情も何もわからないのである。
「そういえば、曹丕。曹叡はいいのか」
「護衛なら鍾会がいる。問題は無い」
そういう意味ではないが、姜維が気にするような事でもない。姜維は「そうか」とだけ言葉を返すとすぐに話を切った。
「とりあえず情報収集、でしょうか。ですが、あまり目立つ事も出来ない。私と曹丕殿は彼らに存在がバレていますし」
「呉の兵士達も何故私達が蜀と一緒に来たのか不思議そうにしていたしな」
探るにも少人数の方がいい。となると、二手、三手くらいに分かれた方が上策ではあるが、効率は落ちる。危険を承知で固まって行動するか――いや、その前に情報を得るためにも呉の人間を味方につけたいものだ。姜維は手を口元に添えるも、何かが気管に引っ掛かったのか僅かに咳き込んだ。
「――お話の所失礼致します」
四人の元へやって来たのは長い黒髪を靡かせた男、陸遜。まずい、聞かれたか。それならばこの場で処分してしまおうか。目の前で拱手する陸遜を怜悧な目で見据える。
「姜将軍、文帝にお話しておきたい事がございます。ただし、私が話す事は重要機密であり、私個人があなた方を信じて話す事。どうにか、陛下にはご内密に」
「伯言殿、それは呉の内情の事か?」
姜維の質問に陸遜は答えなかった。だが肯定だという事くらいは、彼の瞳を見ればわかる。漆黒の瞳は、覚悟と、意志を奥に宿している。
この瞳は知っている。一ヶ月ほど前にも見た、元姫の瞳だ。ジエジンと争った時に、何度も彼女が宿した光だ。
「……わかった。聞こう。曹丕もそれでいいか」
腕を組んだ曹丕が首を縦に振る。それを確認しては、姜維は「お願いする」と陸遜へ返答した。元姫や蔡琰は部下という建前であるため、許可は取らない。
「では、我が屋敷までどうぞ。近くですので、ご案内致します」
陸遜は馬に跨がり、姜維達も再び乗馬する。陸遜と彼に付き従っている兵と共に馬を走らせ、都市内に入れば馬を数十分走らせやって来たのは建業の郊外にある屋敷だ。陸遜は呉の内部でも名の通る豪族の当主。にしてはこんな郊外に――と少し疑問が残った。
石造りの小さな屋敷。防衛機能も何もない。庶民からしたら大きな屋敷ではあるが、豪族が住むにはいかにも小さすぎる。姜維の生家でもこれ以上はあったはずだ、と姜維は記憶の裏からかつての思い出を引きずり出した。
下馬しては馬を陸家の侍女に任せ、姜維達は陸遜に案内されて一室へ通される。中も薄暗く、狭い。ああ、もしかして、此処は臨時の別荘とかだろうか。それなら納得が出来る。室内も椅子と机、少しの調度品が置かれているだけ。椅子へ腰を下ろせば、先ほどの侍女達が杯を姜維達の前へ差し出した。
「……単刀直入に言います。呉は数年ほど前から荒れています。その理由はただ一つ、太子廃立の争いです」




