幻影の焔~懐かしき来訪者~
「それはそうと、最近の孫呉の事情をご存じですか、姜維殿」
「ああ……確か、政争を続けているとか何とか……」
政治に詳しい訳ではないが、隣国の情報くらいは知っている。孫権の治める土地、呉。樊城で関羽に大打撃を与えて関羽を引退に追い込んだり、夷陵の地で劉備に深い傷を負わせて彼に帝位を退かせたりと腹立つ事この上ない国だ。まあ、今は三国鼎立の時代。小競り合いはあれど戦はしない。
そんな国だが、最近はどうやら権力争いに興じているようだ。太子が二人立てられ、どっちが孫権の後を継ぐかで揉めているらしい。蜀はそういう事はなかったが、魏では曹丕とその弟曹植が揉めた事があった。結局兄である曹丕が継いだが。
「ええ、それで皇帝の孫権が正常な判断を失っているので、家臣達も処罰されたり、処断されたりと大変なようです。ああ、これは歩練師殿から聞いたのですが」
月英は腰に右手を沿えて左手を軽く広げて動作を取った。月英と孫権の妻、歩練師。二人は交流があるため、月英はこういった情報をよく仕入れてくる。月英の発明品を孫呉に輸出しているため、対価でもあるのだろう。
「……呉も終わりですかね」
そうなれば攻め込む理由が出来るのだが。さすれば蜀が呉を占領して、魏と天下二分出来る。だが、上手くいかないのが世の中。
「そうですね、争いが続くようであれば……仲介として蜀か魏の人間が行くでしょう。我々の方が近いため、恐らく我々の誰かが」
不可侵条約、三国鼎立同盟を結んだ時、各々の国で解決出来ぬ事は二つの国が協力して解決にあたると誓った。初めはどうなるかと思ったが、これが意外と上手くいっている。
「もしかしたら姜維殿が行くかもしれませんよ?」
「止めてくださいよ、呉なんて行きたくありません。豪族が集まって出来たような国じゃないですか、孫呉なんて」
左手を左右に軽く振れば月英は小さく笑う。ああ、やはり、彼女には笑みが似合う。そろそろ時間かと兵士達に休憩を命じ、次は一対一でもさせようかと考えつつ月英と他愛ない話をしていれば蜀の将兵、夏侯覇がやって来る。彼は拱手し月英に挨拶をし、姜維に視線を合わせる。
「姜将軍、劉備様がお呼びだぜ」
「劉備様が?」
「ああ。……まあ、来客……元姫殿や趙雲殿も居るからさ……」
夏侯覇は妙に顔を青ざめさせ、顔を引きつらせる。彼が青ざめる理由、少し考え、もしかして、と姜維は答えを当てる。
「魏からか」
「行けばわかる。部下の教育は俺と月英殿に任せてくれ、姜将軍」
「わかった――が」
姜維は夏侯覇の胸倉を掴み引き寄せ、小声で告げる。月英は首を傾げていた。
「月英殿に手を出すなよ。手を出したら貴様の明日はない。その胴体から首が離れていると思え。わかったか」
夏侯覇には前科がある。月英ではないが、張飛の妻――夏侯媛に手を出した。酒の席で悪絡みしたのみだが。もちろん、その後彼の結果は言わずもがな、だ。
「だ、出すかよ、仮にも諸葛亮殿の妻だぜ? それに俺は美人が好きだし」
「ふざけるなよ、月英殿は知識美兼ね備えた淑女だ。彼女の何が気に入らないと言うのだ」
「まあ、知識美人ではあるな。うん。確かに諸葛亮殿が妻に迎える理由もわかる。……じゃあ手を出していいのか?」
「貴様殺すぞ」
「もうお前面倒臭いんだけど。どっちかにしてくれる?」
夏侯覇に手を振り払われる。劉備に呼ばれているのなら早く向かわなくてはならない。客が誰なのか気になるが。
姜維は月英に笑みを携えて去る挨拶をし、夏侯覇には手刀をその頭の上に落とすと城内へ向かっていく。本当に手を出さないか数歩進んで振り返っていれば、夏侯覇から「鬱陶しい」という目を向けられた。後でシメよう。
城内へ入ればすぐに黄皓と出会ってしまった。だが彼も呼ばれているらしい。という事は劉禅も会うのか。案内します、と黄皓は前を歩き姜維は彼に着いていく。
「黄皓、主公は?」
「劉備様の元でございますよ、姜将軍」
「そうか」
黄皓と廊下を歩き劉備の元を目指す。二人の間には静寂で包まれ、足音と廊下を行き交う人の話し声、周囲の環境音だけが耳に入る。
黄皓とは仲も悪くないが、良くもない。姜維は彼を苦手としているが、彼はどうなのかわからない。まあ、軍事を担う武官と内政に口出しし、劉禅の言葉を伝える悪しき宦官。相容れないのはわかってはいる。蜀に降った時、彼から手ほどきを色々受け、その時は「黄皓殿」と慕ってはいたが――今では地位も何もかも変わった。昔のようにはなれない。
「姜将軍、兵士の訓練をしているようですが」
「ああ、いついかなる時も動けるようにしておかなければならない。そのためだ」
「今は鼎立の時代。戦の準備をする必要はないかと」
「鼎立は長く続かない。わかっているだろう、貴様も」
「破るのは姜将軍、あなたでありましょう」
姜維は何も言わなかった。以前の不可侵条約を破ったのは姜維だからだ。間を置いて「さあ、どうだろうな」とだけ返しておいた。
部屋の前に着き、黄皓は控えていた女官二人を退かせ室内へ入っていく。姜維も彼に着いていく。すると室内には見慣れた顔があった。
説明不要、魏の将軍司馬昭の妻王元姫。神の代行者、神器の女。そしてこちらも説明不要、蜀の初代皇帝劉備。その脇に控えるのは劉備と水魚の交わりと言われた諸葛亮。現蜀漢の二代目皇帝、劉禅。劉備が流浪時代に彼に仕えだした古参の将軍、趙雲だ。劉備は部屋の中に一つだけ置かれた椅子に腰掛け、他の面々は彼の前に立っていた。諸葛亮だけは劉備の傍に控えているが。
そして、そこに、見たくもない顔が一つ。
壁にもたれ、腕を組んで目を伏せている青年。彼は姜維に気付くと目を開けた。
「――久し振りだな、伯約。いや、姜維」
「ッ……貴様は、曹丕ッ!」
波乱の幕開け。
にじり寄る災禍が、刹那を蝕んでいく気がした。




