結晶の囚人~蜀漢最後の盾~
成都上空に八卦の紋様が浮かび上がっていた。だが民の反応は変わらない。見えていないのだろう、趙雲は成都城前で空を見上げていた。法正が言っていた、見えるのは関わった人間しか見る事は出来ないと。それも訝しげだったが、こういう事かと理解する。
数十分前、法正から言い渡された作戦に趙雲達は奔走した。関羽や張飛の手を借り、成都を駆け回った。趙雲の役目は成都内に陣を敷く事。それを行い、最後の陣の上に槍を突き立てれば八卦の紋様浮かび上がり、硝子が割れる音が響き空中に氷の結晶が舞った。そしてその後は法正が月英と劉禅の力を使いシージエに介入した。趙雲は門を開く役目を担い、楊儀は力を分散させ、法正達はシージエに力を注ぎ込んだ――。
そして今に至る訳である。法正から「多分皇后が帰ってくると思うんで」とか言われたが、そんな気配はない。劉禅、月英と共に待って居るが現れる気配はなかった。
「……哀姫は、無事だと良いのだが」
劉禅は整った顔に儚げな憂い顔を見せる。趙雲は「大丈夫です、必ず彼らは哀姫様を助けます。殿が、劉備様が居るのですから」と劉禅を元気づけた。
「趙雲殿の言うとおりですわ、劉禅殿。それに姜維も、元姫殿も、殿も居ます」
「うむ、そうだな。すまない、月英」
「いいえ、私達は法正殿に言われた通り待ちましょう」
法正は言った。紋様から帰って来ると。恐らく一緒に帰ってくるか、順番に帰って来るだろうと。それ以外だと何かあったと考えてもいいと彼は言う。
「哀姫様は……張飛殿のご息女。武勇も兼ね備えた御仁、大丈夫ですよ」
不安げな顔を漂わせる劉禅を励まそうと趙雲は言葉を選びながら彼を元気づける。「確かにそうだ、哀姫は強いからな」と間延びした声で劉禅は返答する。彼の後ろに控えている宦官の黄皓は何も言わず、ただじっと黙っていた。趙雲や月英という劉備時代の配下が居るからだろう。私利私欲のために動くという性格を劉備時代に看破されてしまっているため、劉備時代の配下達に深く関わらない。もっとも、黄皓と趙雲、彼と月英は天と地ほどの地位の差があるため迂闊に話す事など出来なかったが。
「趙雲と月英は、哀姫の幼い頃も知っているのだったな」
「はい。戦乱の中でお生まれになりましたから。昔はよくお世話をさせて頂きました」
趙雲は柔和な優しげな笑みを見せれば劉禅は羨ましいなあと漏らした。劉禅様も私や他の将兵がお世話させて頂きましたよと言えば少し驚いていた。
「趙雲はいつから父上と居るのだ?」
「そうですね、結構初めから……劉備様が流浪の旅をしていた頃ですね。その頃は仕えるという形ではなかったので、私も劉備様の事を劉備殿とお呼びさせて頂いておりました」
それから劉備は巴蜀の地を得て皇帝となった。気安く呼べるようなお人ではない。そのため、多くの臣下が「陛下」と呼ぶようになったのを覚えている。
「あの頃は、皆劉備様のお友達という感覚でしたからね。孔明も私もそうでした」
懐かしいなあと月英と共に昔に思いを馳せる。すれば黄皓から痛い視線を貰った。「どういう状況かわかっているのか」という目だ。まあ、見なかった事にしよう。
そんな他愛ない話をして十分ほど、八卦の陣が淡く光る。趙雲は槍を握る手に力を込め、じっと見つめる。八卦の陣の中心が膨らみ、白い球体が生まれる。それは趙雲達の前にゆっくりと落下し、球体は亀裂を生み霧散する。
中から出て来たのは、求めた女性――哀姫だった。
「あ、哀姫ッ!」
「劉禅様――」
哀姫は劉禅に抱き締められ、彼女もまた劉禅を抱き締め返す。愛し合う二人の抱擁を見れば心が暖かくなった。
「哀姫様、劉備様達は?」
「月英殿、趙雲殿、医者を呼んでおいて欲しいのです」
哀姫は劉備から離れ珍しく焦ったような、心配を見せるような顔で趙雲と月英に訴えた。趙雲は首を傾げ「どういう事ですか」と問う。
「実は姜維達が――」
哀姫は話す。姜維も劉備も元姫も、傷だらけである事。姜維と劉備に至っては今にも死にそうな事。その中でも姜維が、腹に穴を開けていて危険な状況だと言う。
「承知致しました。黄皓、医者の手配を。華佗先生が孫呉から来ていたはずだ」
趙雲に指示された黄皓は拱手し踵を返しては去って行く。にしてもそこまで危険な状況になっているとは思わなかった。これはこちらから誰かが行った方がいいかもしれない。
「彼らはすぐに戻って来るのでしょうか」
茶色の瞳で問いかける月英に首を縦に振り哀姫は頷いた。
「はい。玄徳様、姜維、元姫殿の順番で帰って来るそうです」
「では、この月英が他の医者も手配致します。劉禅様は哀姫様を」
趙雲はこの場を任され、月英達は成都城へ戻っていく。彼らと入れ替わりにやって来たのは法正だった。真剣な瞳で、人相の悪い顔を更に歪ませている。
「趙雲殿」
「如何した、法正殿」
「……劉備様は?」
「まだだ。今哀姫様が帰還なされた。姜維達が大怪我しているという事で、月英殿が医者の手配をしに向かった」
いつもの人を舐めたような顔ではない。この顔は見覚えがある。いつだったか、漢中で劉備が危険な目に陥った事があった。事無きを得たが、己の身を省みない劉備を叱る顔と同じだ。法正がこのような顔をする時は劉備に危険が及んだ時――。
「何かあったのか、法正殿」
「……ああ、そうだな。趙雲殿、まだしばらく働いて貰う。このままじゃ、劉備様達が危ない。放っておけば、死ぬ」
法正はいつもの敬語を外し淡々と言葉を吐き出した。敬語がない時、即ち彼も焦っているという証拠だ。そして趙雲も焦りを隠せない。どういう事だと問えば静かに法正は告げる。
「劉備様達は哀姫様を助け出したが、核は倒していないという事だ。倒しているのならすぐに戻って来てもおかしくはない。……つまり、まだ俺達の支援が居る。大怪我しているのなら尚更だ」
「策は」
「ある。月英殿や楊儀にも手伝って貰う」
「わかった、伝えよう」
こういう時だけ早い連携。趙雲は踵を返し城内へ入っていく。元姫が居るから大丈夫、姜維が居る、劉備が居る――そんな確証のない言葉で劉禅を信じさせてしまった。彼らとて満身創痍、更に核という訳のわからない敵。無事である訳がないのだ。趙雲は外からしか手を貸せない状況にもどかしく思いつつも今はやるべき事のために動く事にした。
きっとそれが、彼らのためになると信じて。
いや、それはただの――願望だ。
■□□■
「ほらほら、どうしたァ! さっきまでの威勢は何処行ったよ!」
姜維は壁に叩きつけられ、地面へ倒れ伏す。意識が朦朧とする、視界が揺れる。額から滴る血液は真っ青になるほどの量だ。地面に深い血溜まりを作っている。
一撃一撃が重い、強い。元姫が目覚めない今、防ぐしかない。何故元姫が意識を落としたのかもわからない。だが劉備曰く「ジエジンの仕業だろう」との事なので、大方その通りだと思う。その劉備は後方で元姫を守ってくれている。ならば彼らの元に向かわせない事が、姜維の役目である。
「元姫を最初に潰すのもいいが、一番厄介なのは貴様だ。姜維、貴様が生きていちゃ我は元姫も潰せない、劉備も手に入れられない。――だから貴様を先にぶっ潰す」
空中で浮遊しながら嘲り嗤い、氷柱を上空から落下させるジエジン。姜維は身体に鞭打ち、その場から逃げ回避するも力が抜け足を滑らせる。顔に落ちてくる巨大な氷柱。左へ数回転して避け、再び立ち上がっては後退し、右から降り注ぐ氷柱を槍で弾き返した。
槍を振れば血が舞い、傷が開く。普通なら死んでもおかしくはない出血量。それでも死なないのは何故だろう。戦でもこんなに怪我をした事はない。死なないのに、身体は動く。痛いのに、身体は耐えろと言う。何故だろう。わからないが、姜維は動かなくてはと思った。
「もう諦めろよ、我には勝てん」
「――貴様を、回収する。元姫殿と約束したからだ。それに私も彼女に弱みを握られているのでな。止めて欲しけりゃ彼女でも説得しろ」
「何だ、貴様ら仲間じゃないのか」
「仲間――そうだな」
姜維は深く息を吐き出しで小さく笑う。本日二度目だ。笑ったのは数ヶ月ぶりか。
「仲間、か……生憎私は騙されて手伝わされている身だ。仲間とは少し違うな」
「なら何故戦う。そこまで傷ついて、お前は何故戦う?」
「そんなもの、最初から決まっている」
姜維は血塗れの槍をジエジンに向け、血で真っ赤に染まった顔で告げた。
「――私が蜀漢の将兵で、姜維だからだ」
蜀漢が好き、民の平和を、蜀の平和を毎日祈っている。平和になるには、民が、皆が幸せに過ごすにはどうしたらいいだろう。命を脅かす毎日がなくなるにはどうしたらいいだろう。それだけを考えている。だけど答えは相変わらず出なかった。
簒奪者の魏を討ち滅ぼす――それが今は近道だ。
「貴様が蜀漢に危害を加えるのなら私は何度でも立ち上がる。何度も、何度も、何度でも。私が生きている限り、蜀漢に手出しはさせない。――我が名は姜伯約、蜀漢を守る者だ」
「……ッ、やっぱり姜維、貴様は徹底的に潰さないとな!」
一瞬で眼前に迫るジエジン。先ほどと速度は段違いだ。顔に埋め込まれる右膝蹴りを左へ身体を反らして回避。と、思えば床から刃が生え、姜維の左肩を射抜く。槍で破壊しているうちに腹部に拳を叩き込まれる。
「ぐ、ッ」
「は、最初から本気出しておくべきだったな。今の貴様じゃ、我の相手にもならん」
体勢を崩したところ、顔を掴まれて地面に叩きつけられる。血が大量に、吐き出された。それでも血塗れの槍は手放さない。絶対に。
右足を相手の豊満な胸に添え押し返そうとするが、力はジエジンの方が強い。何か、隙を突くような事が必要だ。劉備は元姫の元から離す事は出来ない。離れた瞬間、ジエジンが元姫を襲うのは目に見えている。
顔を掴まれたまま押し返される。強い、痛む、何か、何か決定的な何かを。姜維は握り締めた槍をジエジンの頭目がけて振り、側面が彼女の頭に激突し彼女に隙が生まれた。ジエジンを蹴り飛ばし、体勢を立て直しては劉備達の元まで後退する。
「姜維、いけそうか」
「……厳しいですね。私も万全ではありません。元姫殿の意識が戻れば、何か、答えを持っていそうな気はしますが」
恐ろしいほどの笑み。口元に弧を描き、黒目を映さない白い瞳は嗤う。姜維は警戒を怠らず、ジエジンを見据える。
「わかった。元姫殿を私が起こしてみせよう」
「可能、でしょうか。劉備様」
「わからぬ。が、それしか方法がないだろう」
確かに。姜維は「お願いします」と頷いた。
此処に砦やら拠点があれば、策も展開出来るだろう。だがあるのはただの空間。それだけだ。なら、完全に己の武力が必要となる。しかし、あちらは完全無傷であるが、姜維は満身創痍に近い。いや、満身創痍だ。その中で、どうやって、時間稼ぎをするか――だ。元姫が起きるまでの時間稼ぎ――。姜維は目を数秒閉じ、また開き瞼の上の血を左手で拭った。
「姜維」
「大丈夫です、元姫殿を頼みました」
姜維は数歩、足を踏み出し、ゆっくりと歩いて行けば即座にジエジンへ向かって行く。突き出される氷の剣。剣の側面に足を乗せ、飛び上がり一回転しては彼女の頭上を舞うように天井を瞳に入れて背を反らし、槍を振り下ろしては首を斬り裂く。だが避けられてしまい、斬れたのは彼女の髪の束だ。未だ空中を飛び交う姜維にジエジンは迫る。首に手を伸ばされるも、姜維は彼女の右腕を引き寄せ、左脇の下に入れて拘束すれば両脚で彼女の頭を拘束する。そして勢いをつけ、左手を地面につけば即座に彼女の身体を東へ吹っ飛ばした。ジエジンの身体は受け身を取る事なく壁に激突する。
おかしい。姜維はすぐに思った。
受け身を取らない。いや、取れなかった?
そもそも抵抗らしい抵抗もなかった。拘束したというのも理由だが、今までのジエジンなら抵抗してもおかしくはないし、あの時点で攻撃される可能性だってあった。なのに、彼女は何もしなかった。
――出来なかった、と考えるべきか?
姜維は氷の瓦礫の下に崩れるジエジンを見据えていた。何か苦手なものがあった、そう考えるのがいいだろう。ならば。
もう一度やるしかない。
ジエジンは瓦礫を粉砕しその姿を現す。額からは血を流している。怪我らしい怪我はそれだけだ。頑丈さと、速さを兼ね備えたジエジンは実に厄介だ。
一瞬で消えた。いや、移動した。姜維は左へ瞬時に飛び退いた。目視は出来ていない。左目の端に入ったジエジンに姜維は瞬時に留まり、後方へ。だが遅く、槍を握り締めたまま右手を掴まれ凄まじい力を込められる。離れない、動かせない。とてつもない剛力。そして右手からは嫌な音が響いた。
「ッ――」
姜維は数歩後退し、腕を押さえてはその場に膝をつきジエジンを睨み上げる。冷や汗を滴らせ、血と混ざり合いながら地面に落ちる。手から槍がこぼれ落ちた。
「声すら上げないか。流石、武将の鏡だな?」
骨を折られた。最早痛みなんて麻痺でもしているかのよう。痛みで声が出なかった。声に出せない叫びというところだろうか。姜維は立ち上がり、乱れた呼吸を整える。
「だが、もう槍は握れないだろう?」
「そう、思うか。貴様は」
「当たり前だ。骨が折れて武器を振るえる人間はもう人間とは言わない」
その通りだ。槍は振れない。姜維は震える右手を見つめる。
違う、振れないのではない、握れないのではない。握るのだ。握らなくてはならないのだ。握らない選択肢も、諦める選択肢も何もない。この状況、戦えるのは姜維だけ。劉備には元姫を守って貰わなくてはならない。
姜維は数本ある帯紐の一つを解けば、左手で槍を掴み右手に置けば帯紐で巻き付けていく。こぼれ落ちないように離れないように紐で握らせ、左手と口で布の端を引っ張り結んだ。
「――握れない、んじゃない。握るのだ」
「は、ッ……姜維、貴様はもう、化け物だよ」




