結晶の囚人~神を渇望する~
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寒い、冷たい、痛い。身体が重い。何だ、何だ、これは。うっすらと開いた瞳は氷の世界を映し出す。ああ、そうだ、己は確かジエジンと戦って――それで。確か、劉備が飛び込んで来て、そこから記憶がなかった。
声と、轟音、刃が擦れる音が聞こえる。誰かが戦っている、休んでいる暇はないと身体を起こす。吐き気がこみ上げ、大量の血液が吐き出される。氷の床を血で染め上げ、姜維は己の怪我が重傷である事を理解する。
「ッ、姜維殿!」
「げんき、殿」
駆け寄ってきた元姫に支えられ身体を起こす。腰まである茶色の髪が散らばり、血で所々染まっていた。髪紐は敵の攻撃で切れたのかと察する。元姫を見れば彼女は頬や腕が血で滲んでいる。膝丈まであった下衣の裾は破れ股辺りまで肌を晒していた。
「戦ったのか、元姫殿」
「少しよ。あなたを殺されそうになって、戦わない訳にはいかないわ」
元姫の右膝には深い裂傷があった。氷で切られたか。姜維は自らの右袖の裾を破り、彼女の膝に巻き付け止血する。
「夫のいる女性が身体を傷付けるのはその夫に対する侮辱だぞ。私はあなたの旦那を好きではないが、礼法は知っているつもりだ」
「あなたの命に代える訳にはいかないでしょう」
「喜ぶかもしれないぞ、あなたの旦那は」
元姫の旦那は魏の将軍。姜維が死ねば、魏への進行が少し停滞する。それは確実だ。元姫は「そんな事じゃ私の正室は喜ばないわ」と姜維の言葉を切り捨てた。冗談はそれくらいにし、姜維は自分のために戦ってくれている劉備を見据える。流石、流浪時代から戦ってきた歴戦の人間。衰えを知らないようだ。まあ、衰えを知らないのは己もだが。
だが――長くは続かない。それに、劉備に怪我をされては困る。後々のために、彼は温存しておきたい。
「……外部には」
「取れたわ。法正殿が出たから介入してくれる。間違いない」
「つまり、それまで私はジエジンと戦えばいい訳だな」
「何、言ってるの、無理よ。その身体じゃ」
元姫は少し焦ったような、信じられないと黒曜石の目を見開く。だが劉備を戦わせる訳にはいくまい。姜維は懐から髪留めを取り出し、髪を纏め床に置かれている血塗れの槍を手に持ち立ち上がった。
「私の力で姜維殿は少し生命力を上げたけど……そんな身体じゃ――」
「此処で奴を倒せるのなら倒しておきたい。外に出して倒すという方法だと……可能性は半々だが、国に、民に攻撃を加えられても困る」
そもそも最初からジエジンの行動はおかしい。疑問が残る。力が欲しいなら最初から力の持つ人間を狙えばいい。だがそれをしなかった彼は皇后というか弱い女性を選んだ。最初は国を傾けるためかと思った。彼に滅ぼす意志がないのなら劉備や劉禅に取り憑かないのは理解出来る。だが、こんな、回りくどいやり方まるで何かを狙っているような――。
「ッ、劉備殿!」
元姫の声で姜維は現実へ戻される。劉備は地面から大量に射出された剣の攻撃をいなし、床を転がる。そして、彼の身体からは赤い血が、水溜まりを作った。
動かない訳にいかなかった。
先帝を、蜀にとって神に等しきお方を戦わせるなど。
姜維は立ち上がり、口内の血を吐き捨てては口元の血を拭う。劉備殿を頼むとだけ元姫に告げては再びジエジンの前へ立った。
「何だ、劉備は終わりか?」
「あのお方を貴様ごときの相手にさせる訳にはいかないからな。貴様は私が討つ」
「その身体でか。――いつまで耐えられるか、なッ!」
瞬間で眼前に移動したジエジンは姜維の腹部を傷口の上から掴む。ごぽり、と水音を立てて口から血が滴る。吐き気がする、気持ちが悪い。だがそれ以上に痛みが勝った。冷や汗が滴る。姜維は血塗れの戟に似た槍を振り上げ、ジエジンの首目がけて振り下ろす。ジエジンはそれを予測していたのか軽やかに後退して避けた。血の気のない顔で、血を滴らせながら相手を睨み、胸を押さえる。
逃げた。回避した。氷の防御は使えないという事だろうか。痛みが広がる中、姜維は冷静に判断していく。視界の端で劉備を介抱する元姫が確認出来た。
「私はずっと疑問だった。貴様の目的は国を傾け、神器に囚われる事なく生きる事だと私は思っていた。だが、それなら、国を襲う事もない。私達に牙を向く事もない。非効率過ぎる」
姜維は血を左手の甲で拭い痛みを耐える。表情に一切出さないが、冷や汗と顔色の悪さが身体の不調を訴えていた。
「だから私は仮説を立てた。貴様は――最初から国など狙うつもりもないのではないかと」
ジエジンは何も言う事なく黙って耳を傾けている。姜維は話を続けた。
「私は元姫殿が告げた仮説を信じた。故にそれが全てだと思った。だが彼女が告げたのは全部“基本”の事だ。国を傾けて悪戯するという核の特徴も、何もかも」
最初説明を受けた際、それに囚われてしまった。だが核の数だけ核の目的がある。意志があるなら尚更だ。だから違和感がずっと残っていたのだ。一つの違和感は、これだろう。
「……貴様が狙ったのは一つの存在として生きる事。それこそ神器や人間として。元姫殿という例がある。人間から神器になった存在がある。貴様はそれに目をつけたのではないか」
「へえ?」
「人間になれば自由も利く、更に神器なら尚更だ。力を持って自由になれる。だから貴様は元姫殿が核を解放した際、皇后を狙った。――その皇后も、最終目的のための布石だろう」
姜維は目を一度だけ伏せ、静かにジエジンを瞳に映す。瞳の中の彼は、何を考えて、何を願っているのか。姜維は少しだけわかる気がした。自由を願ったその身は、かつての己に似ていたからだ。
「本当の目的は――劉備様だ」
僅かに浮かべられていた微笑みが消え、ジエジンは姜維を怜悧な目で見つめる。賭けだったがやっぱり当たったようだった。こういう時の勘は嫌いだ。かつての上司も「嫌な時に嫌な場面で当たる」と褒められたのか貶されたのかよくわからない言葉を姜維に告げた。いや、これは貶されたのだろうなと今更ながらに思う。
「あのお方は信仰対象だ。神と崇められる人間は都合がよかった。なんたって信仰してくれる民が居れば、己は神になれるのだからな。……信仰心は力となり、核の力となる。人に取り憑いて力を集めるより一人の人間に集めさせた方が効率もいい」
全部推測だし仮説でしかない。ジエジンの言動、行動から推測しているに過ぎない。間違いである場合もある。だが、それ以外だとするとどうしても齟齬が出るし、何より非効率。いつ元姫に見つかって、回収されてもおかしくはない身で、悠長に構えている暇もないはずだ。それを理由に他の仮説は切り捨てた。
「劉備様に取り憑き、信仰され、信奉者の生命力でも何でも奪えば簡単に力を集められる。だが貴様は劉備様に取り憑く事が出来なかった。……劉備様は人にしては神と崇められ、神に近い存在だったからだ。己と力の差があったのだ」
ゆえに貴様はまず騒ぎを起こした。この成都で騒ぎを起こし、殭屍の事件を起こした。事件を起こし大事にすれば劉備様が出てくる。民を誰よりも愛する彼だ、出て来ないはずがない。劉備様を貴様は引きずり下ろす作戦にしたのだ――と推測を語る姜維。相変わらずジエジンは黙って言葉を聞いていた。
「だが、貴様にとって想定外だったのは――」
「お前と遭遇した事だ、姜維」
そう、彼は想定外だった。己と元姫と遭遇した事が。会わなければ此処まで追い詰められてもいないだろうし、戦いを長引かせる事もなかっただろう。ジエジンは「全て正解だ」と告げて言葉の続きを語り出した。
「我は劉備が欲しかった。神のごとき肉体、精神、神に近いその存在! 数多の人間を虜にしたというその存在は、神そのものだったからだ。だが、神器ならまだしも核と人間では差がありすぎる。我はまず、外堀から埋めていく事にしたのだ」
「それで皇后を狙ったと」
「そうだ。そして、ちょうど良かった。姜維と元姫が劉備と一緒に居た。貴様らの力を食らえば、我は劉備に取り憑ける」
だから攻撃の時も手を抜いた。後々我の身体となる、傷付けては我が痛い思いをするだけだしな。とジエジンは舌なめずりをし、元姫と共に居る劉備を見据える。姜維はそれを遮るかのように左へ数歩移動した。
「謎が一つ解けたな。それなら遠慮する必要もあるまい――この姜維、手を抜いて勝てるほど甘くはないぞ」




