鬼住まう島
長く生きすぎたのだろうな、と幸之助は思った。
おぼろげな記憶によれば己は四十半ばに届かない程度だろうが、もうずいぶんと生きた。
強きに挑みて十数年。弱きを挫いて二十数年。
老いも若きも皆斬った。
正式な――といっても廃刀の令によって剣が打ち捨てられている以上、互いの合意があるというだけで行い自体は法に背いた――〝果たし合い〟から、辻を血濡らす〝殺し合い〟まで、なんでもやった。
そして満足してしまったのだ。
否、満足というよりは納得か。己を見定めて、この先を生きても『この程度』だろうと、己の限りを理解してしまった。
「ふむ」
すっかりくせになったちいさな溜め息をひとつ、幸之助はたたずんでいた川の端で屈みこむ。冬よりは関節も痛まない。
土手の向こうからは夏の、ぬるい湿り気を帯びた潮風が流れ、着物の隙間を抜けている。もうすぐ海だ。
火照った身体に冷気を与えようと、幸之助は水面に手を差しいれた。顔を水で洗う。ついでに口に含む。生き返った心地がして、水気をぬぐうと同時に伸びた髭を撫でた。
しばしそうして、長さが胸骨に及びそうだと気づくと、すらりと右手のみで腰の大刀を抜いた。
早剃刀。
左手は肘を曲げて懐に納めたまま。器用に片手で、水面へ髭を落としていった。
髭を落とせば、心持ちがすっきりした。
また山や森にこもっている内にずいぶん月日が過ぎていたのだと、落ちた髭の長さに歳月の流れを思った。
やはり左手を使わず腰に刀を差し直すと、幸之助は袴の裾を払ってゆらりと身を起こし、土手をえっちらおっちら乗り越える。
広がる小さな浜辺。打ち寄せる波に目をやった。
寄せては返す波の往く先を見ると、小さな島が見える。
鬼が棲まうと、道中の村で聞いた島だ。
「ふむ」
今度は溜め息と同時に、ひとつ唾をのむ。
鍔元に添えた右手を震わせ、すっと一歩を踏み出した。
土手を降り、さくさくと砂浜に足跡を残しながら、幸之助は歩きだす。
往きついた港の村は、海藻のにおいが隅々まで染みついた場だった。
船着き場から太い道に沿っては煉瓦つくりを備えた屋敷などがあり、わずかに開化の空気を漂わせているものの……一本筋を外れればそこには幸之助にとってなじみ深い、旧き家の町並みがある。
よくて瓦、さらに奥まったところになれば茅葺の屋根がのぞく細い通りは、肩身狭そうに身を寄せ合う昔ながらの暮らしぶりを思わせた。
だがそんな昔ながらの人々にさえ、幸之助は混じれない。
角を曲がるときは足先から出すように歩む幸之助の腰のものを見て、またその風体の汚らしさを見て、人々はぎよっと露骨に顔をしかめる。
……ほんの少し前までは、このような風体も珍しくはなかったろうに。強きに挑む道を選んだばかりの頃のことを思いながら、苦笑を浮かべて幸之助は往く。
やがて船着き場まで来て足を止めた。幸之助は静かに一度、半目で視線を配った。
――こいつがいい。
目星をつけ、また歩きだす。
ぎしぎしと重く軋む桟橋に己の身をあずけながら、船の横で煙管をくわえていた青年に声をかけた。
「もし。お前は船頭か」
「ん、アァ……いかにもおれは、そうだが」
頬かむりをして日差しを避ける青年は、まぶしそうに幸之助を見てふかしていた煙管の火を落とした。桟橋の隙間をくぐってじうと水面に落ちた火を幸之助の目が追う間も、わずかたりとも目を逸らさない。
この目つきが気に入って、幸之助はもう一歩近づいた。
「あの島まで船を出せるか」
「この辺の連中はあすこにゃ出さんよ。鬼が棲むってな噂だかぁよ」
かったるそうな口調で青年は言い、煙管の雁首を掌で叩きながらせせら笑うように口の端をつりあげた。
「だれか、この辺りの者が斬られたのか」
「いんや。だが斬られたってな話がはやった。それだけで十分だぁな」
「慎重なことだな。臆病とも言う」
「ハハ、おれたちゃぁもともと風に吹かれる生業だ。臆病風に吹かれたのさ」
「風の向くままか、瘋癲め」
「応、そうさ。漁れねぇときゃぁ百姓の真似でも物売りでもやるからよ。コレを天命と定めて漁やってるってなぁわけじゃねぇ」
軽い挑発にのることもなくのらりくらり、まさに風に吹かれる柳のごとしだった。
その物腰に、幸之助は経験から当たりの人間を引いた手ごたえを感じた。
帆をつけたちいさな舟にのる網の束をぞんざいな手つきで手繰りながら、青年は鼻歌をうたっている。どこか倦んだような気配がある。
幸之助はふ、と笑ってみせて、青年に懐からの金子を放った。
「くれてやろう」
青年は、手を伸ばす前に幸之助を見た。その用心深さが気に入る。それが……血のにじんだ巾着だからというのでなく、彼は巾着が落ちる前から幸之助への注意を怠っていなかった。
彼は幸之助の腰のものに注意を寄せたまま、手を伸ばして巾着を取る。少しだけ鼻の下を伸ばして、ゥヘ、とうなった。金は嫌いではないらしい。
「俺に雇われるのも風の気まぐれと、そう思っておけ」
「へえ。風が吹きゃぁもうかるもんだ……」
「貴様は桶屋か」
「ハ、桶屋だけぁやれねぇんだな。なにしろおれ、明るいこと底抜けと言われるもんで」
けたけた笑いながら、青年は身軽に舟のへりに足をのせ網を手繰り上げ、あいた場に幸之助を招いた。
幸之助は揺れる舟底に尻を押し付け、煉瓦つくりの町を背に大海へ進み出す。
青年の舵取りはなかなかに巧みだった。すいすいと波間を抜けるようにして、海を渡っていく。
「鬼が出るってな噂ぁ出始めたのは、この五年くらいでさ」
ぎりぎりと櫂をうたわせながら、青年は目指す先を見据えて言った。
「もともとあすこは、おれたちみたいな連中が時たま休みに寄るだけでひとは居なかったんだがぁよ。いつからかどっからか、棲みついてやがったんだ。白髪混じりの爺で、痩せた身体で脚を引きずり、刀を杖代わりに歩いてよ」
「脚が悪いのか、鬼のくせに」
「脚だけじゃぁない。腕も悪い。いや、腕の方が悪いな……なにせ、右の肘から先が無いんだ」
腕を。失くしている。
その確たる話しぶりに、おそらくこの青年は噂を聞いたのではなく、己の目で見た本人なのだろうと幸之助は思った。
「で、斬られたものを見たのか」
回りくどいのは好きではない。幸之助の核心を突く言葉に、青年は一度周囲の気配を探るようにした。自身が噂の出所だと、まわりに知られたくなかったようだ。
とはいえ海の上、聞くものはない、ということをあらためて思い出したように、青年はつぶやく。
「いんや。斬られたやつを見かけただけだぁな……」
櫂から手を離し、右手で肩から脇腹をなぞる。
「袈裟がけにばっさりと。そらぁすげぇ切り口だった。どっちも刀ぁ抜いてた。そんとき見たんだ、爺が左手で刀ぁさげてて、右の袖がはためいてんのを……」
身震いしながら、青年は櫂を取り直す。それで安心したのか、震えは弱まる。
人間、自身を何者か定義するものに触れると安心するものだ。
「いま思い返しても、ぞっとすらぁな。あの爺の目つき……それに、顔が、な」
「顔?」
「右の顔面がな、こう、歯ぐきが見えるほど。面の皮ぁ削げてて、獰猛に笑ってるように見えんだ……」
成る程、それは鬼と呼ぶほかない。ふむとうなずくと、青年はやっと、視線を幸之助に向けた。
「なんだか櫂が重く感じらぁ」
「潮目が変わったか」
「いんや。そんな奴の居るとこへひとを送るってのぁ、どうにもね。流刑にでも付き合ってる気分だ」
半ば冗談、半ば本音だろう言葉をこぼした青年は、冗談の意味合いを強めたく思ったのかへんなつくり笑いを浮かべた。
幸之助は彼から視線を逸らさず、不意に浮かんだ意地の悪い思いから、彼に言った。
「お前、すでに三度か四度、俺のような者を運んでいるだろう」
「へ、」
「流刑の付き合いで同舟などするとな。一度目二度目は話をする気にもなれんものだ。三度目から、慣れてくる」
ずいぶんむかし、そうした職についていた頃を思い出しながら言えば、青年はばつの悪そうな顔をした。それきり無言であった。
岩礁に乗り上げぬように浜まで送り届けてくれた青年は、軽く頭を下げて頬かむりをとり、意外に端正な面立ちを見せてから波間に去っていった。
彼の背から目を離し、振り向けばそこは離れ小島の森が広がる。
このどこかに、剣鬼が居る。
知らず右手で腰の大小の柄を確かめ、肘曲げたまま懐に納めた左腕の位置を正して。意を決した幸之助は歩きだす。
深い緑の森は沈んだ落ち葉のにおいに満ちていて、夏の色は薄い。
人のつくる道もなく、日差しを遮る厚い枝葉に頭上を覆われると、森に慣れた者でなければあっという間に自身の踏む場がどこなのかわからなくなるだろう。
けれど長い山の生活で森を読むことを常としていた幸之助には、歩むにあたってさしたる障りもなかった。
先手を奪われぬよう、慎重に慎重を重ねて気配を悟ることにのみ意識を尽くし、ひたすらに遭遇を求めてさまよった。
「む……」
途中見つけた無花果をかじるうち、幸之助は足跡を見つける。
足を引きずった痕跡が、落ち葉を荒らして刻まれている。見れば青年の話に聞いたとおり、左足で踏み出した先に、杖のように鞘の鐺をついた跡があった。
視線をあげて、さらに歩む。すると、焦げたようなすえたにおいに行き当たった。
木陰に身を隠しつつうかがえば、先にある木々の隙間に、火を焚いたあとがあった。
素早くちかづいて右手で探るように検めると、灰はそれほど散っていない。温かさは残っていないが、脚の悪いことも考慮すればさほど遠くではないだろう。
「もし、どなたか居られるか」
森の奥に向けて声を張った。だが枝葉のざわめきに吸い込まれた。
もう一度くらい張り上げてみようかとも思ったが、無駄に終わる気がしたのでやめた。これでひとまずだれかが居ることはわかったのだ、いまはそれでよしとしよう。
急ぐわけではないのだ。
生き急いでなどいない。
幸之助は立ち上がり、灰で滑る指先を丁寧に懐の手ぬぐいにすりつけた。それから、また大小の位置を正す。
日の暮れかけた森の果てで、幸之助はやっと鬼を見つけた。
島を縦断するかたちとなった彼は、森を抜けて海に向かう。
果たして。
そこに、出会った。
燃える陽の沈む水平線を望む断崖。
そこに立つ鬼からのびる、影の中に幸之助は居た。
鬼は、殺気を放ち続けていた。
幸之助が近づくことに気づいたからではなく、最初から――そう本当に最初から、彼がそこにそう在ると決めたときから、そうだったのだろう。
彼は殺意の権化だった。
思えば森に踏み込む前、幸之助が腰のものに手をやったのも、彼の殺気に触れて否応なくとらされた防りの意によるものだったのだ。
彼は、老いた男だった。青年の言う通りの風貌をしていた。
右膝から先はくの字に折れて力なく、左足と左手についた刀で枯れ木のような身を支えている。ぼろぼろの着物をまとっており、短く刈られた頭髪には白いものが多い。
それでも腰を曲げることはなく、しゃんと背筋を正している。うつろな表情で足下を見、斜陽に翳る横顔には、確かに鬼の獰猛さ。
どう怪我をしたのかわからないが、右目はつぶれ、右の頬からざっくりと肉がえぐれ、歯が露わになっている。
彼は顔をこちらへ向け、厚ぼったいまぶたの下、黄色味を帯びて濁る左の眼で幸之助を見た。
「生き迷うたか」
かすれた低い声で、言った。
心底鬱陶しそうに言った。
空の右袖がはためく。またその時、地面についていた刀を持ちかえて、帯の右腰に差す。帯にはほかに一本、匕首がある。
「……ええ」
返して、幸之助は構えをとった。右腕ひとつで刀を取り、腰を切って鞘を払う。左手は肘曲げて懐に納めたまま、片手で鍔元をつかんで頭上高くへ剣を掲げ、右足を一歩踏み出した。
右片手上段。鍛え上げた業だった。
鬼は、なにも言わない。
名乗りをあげることもなくただ、殺気のみを放っていた。幸之助の左手が不動であることにさえ、わずかたりとも言及しない。
そう在ることへの心地よさを覚えて、幸之助はじり、と一歩を踏み出した。応じるように、鬼も抜く。
左足を前に踏み出し左手で肩に担いで構える刃は脇差、鞘に比べて少々短いものだった。おそらく、杖とするには脇差の長さでは足りないため、鞘のみ長いものを用いているのだろう。
とまれ、間合いは幸之助の方が遥かに長い。あと半歩で斬れる。
思い、肚に息を落として、跳びかかる。
「――シっっ!」
手の内で鍔元から柄を滑らせ、柄頭に指先をかける。
拳二個分の間合いを伸ばし、片手だからこその利を最大に生かした工夫にて鬼の左肩へ迫る。担いだ脇差ごと鎖骨を砕き、次いで突きにて肺腑を貫くつもりだった。
しかしかわされる。鬼は左足ごと身を引いて切っ先を避けた。
次いで脇差で打ち込んでくる。幸之助の刀を押さえつけるように鬼の刃が降りかかり、弾き落とした。
瞬間、翻る剣先。
脇差が幸之助の剣の峰を滑り上がり、斜め掛けに切り上げてきた。
鼻っ面をかすめるようにのけぞってかわす。剣を手放し、幸之助は距離をあけるべく右足で鋭く蹴り上げを放った。
鬼はなんということもないように、幸之助の向こうずねに柄頭を打ち当てる。びりりと痛みが走る。
そして死が迫った。
左からくる横薙ぎの一刀が幸之助の胴に食らいつかんとしている。
対応できたのは、研鑽が反射に至らしめた動作の賜物。
右逆手に抜いた脇差で、腹部に食らいつこうとした横薙ぎを防ぐ。
「……!」
重い。
枯れ木のような老体から繰り出されると思えない剣が、幸之助の身体を横へ押しやった。信じられないことだった。怖気が走り、背筋に汗がとめどなく流れる。
同時に、感動していた。
もう二度と剣を振れない左腕をぶら下げながら幸之助が向き合うこの相手は、自分と同じ境遇にありながらまったくちがう強さを身につけている、と。
「――使う、か」
幸之助は後方へ飛び退って間合いをあける。二歩で剣先交わる間。
ここで右手の脇差を順手に持ち換え片手正眼に構えた。鬼は左半身にこちらを向き、脇構えにて剣先で地面を指している。
じりじりと、一寸二寸の出足を競り合う時間がある。
ひりつくような空気が、間延びしていく。
すでに己に納得し、あきらめていたはずの幸之助は、いまたしかに生を実感していた。
……陽が落ちていく。
互い構えた位置から動かさないことで、剣のきらめきもゆっくりとしか変化しない。
いつまでもこの競り合いがつづくように感じられた。汗が頬を伝い、地面へ落ちる。
そこで唐突に、幸之助の剣が閃いた。
腕から力が抜ける。指先が縛りを解く。
刀から手を、離す。
空に浮いて止まったように見えた一瞬――正にこの隙を〝突いて〟、幸之助の邪剣が成った。
浮いた脇差の柄頭へ、
後ろに置いていた左足で膝蹴りを打ち、
一直線に狙う飛刀と化す邪剣。
「――〝落し月〟――」
鬼の眼前に迫るは脇差の切っ先。
防ぐかかわすか、いずれにせよ体を崩す。幸之助は確信していた。
確信は現実となり、鬼は剣を脇構えから切り上げた。幸之助の脇差を払い、さらにそのまま、自らも剣を手放す。
からまるように二つの脇差は空をすっとんで、近くの茂みに落ちた。
無手になった鬼は、振り抜いた姿勢で身体の前面を幸之助に晒している。隙だらけだ。思い、腰の鞘に手をやる。鞘に沿うように付いている、小柄という剃刀のようにちいさな刃を抜いた。
二連目の、飛刀。
近距離から放つ投擲。
鬼は――左掌で、目を狙ったこれを受けた。
それでいい。防がれても構わない。
ただこのひととき、視界を塞がれているのなら――幸之助は最後の刃を抜くことができる。
それは、鬼が帯に手挟んでいた匕首。
伸ばした右手は柄を確かに取った。
勝利が確信できた。
直後、
幸之助は確信が現実から離れていくのを感じた。
「か……、」
裏拳気味に首筋に叩き込まれた左の孤拳。
鬼は掌から手の甲まで貫いた小柄の先端を、この一撃で幸之助の頸動脈に差し込んでいた。
速やかなやり口に、幸之助は、溜め息を漏らした。
二、三歩、ぜんまいが切れかけた機巧のように幸之助は足を進めた。その先には、すっかり陽の落ちた海を臨む、崖があった。
そこでどんと背中を蹴られ、身が浮く。
後ろを顧みれば、鬼は足を引きずりながら、心底億劫そうに森へ帰るところだった。