08
翔から留守にしていた間の領内の様子等の報告を受けながら、
執務室へと足を進めていた飛龍は、
遥か後方から聞こえてきた朱里の叫びに思わず足を止める。
紡いだ言葉を判断する事は出来なかったけれど、
弾んだ声なので、問題が起きた訳ではなさそうだと判断し直ぐに歩き出す。
「楊さんは今日も元気ですねぇ」
「そこが朱里の長所だろう」
「個性だとは思いますが、長所とは言い難いかと…。
彼女には慎重さが足りません。
奥方様の安全を第一に考えるなら、護衛としては少々力不足です」
「それは否定しきれないが…、
十分に腕が立つ者となると厳つい男ばかりだからな。
あいつらが護衛では、香雪が泣くか怯えるかするぞ」
「飛龍様、ご自分の事を思いっきり棚に上げてらっしゃいますねぇ」
明らかに不敬な翔の発言だが、飛龍が気にする様子はない。
それが翔なりに飛龍を気に入っているからこその物言いだと
飛龍には分かっているからだ。
勿論、一般的な主従としての形が必要な時にこれでは困ってしまうが、
翔は飛龍以上にその辺の見極めはしっかりしている為、全く心配はしていない。
「俺に威圧感があるのは否定しないが、
どういう訳か、香雪は俺が怖くは無いらしいぞ」
「飛龍様は干戈を交える時には冴えていらっしゃるのに…本当に残念な方です」
「何が言いたい?」
「いえ、わざわざお耳にいれる程の事ではありません」
主に問いかけられ、彼は本当に気づいていないんだと翔は内心苦笑する。
怖くない理由なんて簡単に分かりそうな物なのだが…
執務室の扉が近づくと、翔が数歩前に出て扉を開ける。
部屋に入った飛龍は、机の上に詰まれた書簡を見て、僅かに眉をしかめる。
留守にしていた期間を考えるならば、少ない方なのだが、
今日中に片付けなければならない仕事だと考えると、明らかに多い。
文句を言った所で、量が減る訳ではないし、
これが自分の仕事なのだから…と席に就き、
一番上にある書簡に手を伸ばしばがら、
「ところで、香雪の事なんだが……どう思う?」と、
扉を閉めている翔に声をかける。
「私の好みではありません…なんて事を聞きたい訳ではありませんよね?」
「当たり前だ」
「そうですねぇ……
幼さが残っていますが、見た目は十分に整っていらっしゃいます。
ですが、今の所は見てくれが良いだけのお人形といった印象でしょうか。
殿下の妻としての役割をこなす力は備わっていない様に感じました」
「……まぁ、相応の教育を受けていないのを分かった上で
俺が無理を言って娶ったからな」
「教育の必要はございますか?」
「本人の意思に任せようと思う」
口と同時に手も動いており、確実に仕事がこなされていく。
「飛龍様、私は…いえ、おそらく私だけではなく、
この屋敷で働く者のいくらかは、
彼女が今のままでは、主とは認めないと思われますが…」
「だろうな。だからといって
虐げたり、危害を加える訳ではないだろう?」
「それは勿論、貴方が選んだ方ですから」
「ならば、それで十分だ。
信頼も忠誠も命令によって生まれる物ではないからな」
「それは確かにそうですね」
「ただ…出来れば、暖かい目で見てもらえると助かる」
「それは…私には少々難しいですね」
「…それもそうか。
お前が優しかった事なんて、出会ってこの方無いもんな」
留守にしていた期間が長かったとは言え、
机に詰まれた書簡の量に、優しさを感じ取る事は出来ない。
それでも、残った面々で片付けられる仕事を、
きっちりと片付けておいてくれていたのは明白なのだが…。
「そうですよ。私は優しくありませんから、
それを全部片付けるまで夕飯は食べられないと思って下さい。
確か、奥方様と一緒に食べるお話をなさってましたよねぇ?」
「あぁ、あまり待たせない様にしないとな」
会話はそこで終わり、二人の仕事をこなす速度が急速に上がる。
山積みの書簡は、
いつもの夕食の時間を少々過ぎた頃には綺麗に片付けられていた。