04
どれだけ疲れていても、香雪に休む時間など与えられない。
「姫様、ご入浴の準備が整っておりますので、まずは其方へ。
その後、寝室にご案内いたします」
「いつもの部屋ではないの?」
「えぇ、今日の為に特別に飾られたお部屋でございます。
其方で殿下の来訪をお待ち下さい」
「わかったわ」
否という答えは、香雪に認められてはいない。
これは、香雪が侍女から姫になっても変わらなかった事だ。
浴室に行けば、今日は大切な日だからと、数人の侍女に囲まれて体を洗われる。
自分で出来るから…という香雪の訴えに耳を貸してくれる者など居ない。
文字通り、体の隅々まで現れた香雪は甘い香りの香水を吹き付けられ、
絹で出来た寝間着に包まれる。
「姫様、お綺麗ですわ。これならきっと飛龍殿下も気に入って下さいます」
ありきたりな世辞に、香雪は曖昧な笑みを浮かべる。
女性らしい曲線美に恵まれた姉達とは違い、
全体的に細く女性らしい丸みに乏しい貧相な自分の体が
気に入ってもらえるなんて香雪には思えなかった。
「では、姫様、こちらで殿下をお待ち下さい」
案内された部屋は姫となった香雪が与えられた部屋よりもさらに広く、
部屋全体が生花で飾り立てられていた。
甘い香りで満たされた仄明るい部屋に、たった一人取り残された香雪は
大きなため息を一つついてから、長椅子に腰掛け
全身を包み込む疲労に抗う事無く、背もたれに身を預けた。
挨拶の言葉も、姫としての立ち居振る舞いも必死に覚えたのに、
何一つ上手く出来なかった。
こんな自分が飛龍の妻としてやっていけるのだろうか?
それ以前に、本当に飛龍の妻になれるのだるか??
香雪が純潔でなければ、この結婚は破談になると聞かされた。
それに関しては何ら問題はなく、
火の王子様に憧れとも初恋ともつかぬ淡い想いを抱いた以外には、
恋らしい感情を持った事すらない。
破談になる可能性はもう一つ、今夜中に二人が結ばれなかった場合だ。
跡継ぎを生むのが妻の重大な役目である以上、
睦事がままならぬ様では話にならない。
男女が裸で抱き合い繋がるらしい?程度にしか夜の知識がない香雪には、
結ばれるという状況も具体的には想像できないのだけれど、
香雪の貧相な体をみた殿下に拒絶されれば、
妻になれないという事は理解できるし、
もしかしたら、その方が良いんじゃないか?とすら思えてしまう。
殿下は、いつお見えになるんだろう?
何をするでもなく、ただ椅子に座って飛龍を待つ香雪の瞼は、
いつの間にかゆっくりと閉じていった。
「香雪様、飛龍殿下がお見えになりました」
扉の外からかけられた声に、言葉が返される事はなかった。
「香雪様?あの…入りますよ」
侍女がそっと扉を開け、中を確認すると、
そこには長椅子に身を預けて寝息をたてる香雪の姿があった。
「香雪さっ!?」
慌てて香雪を起こそうとする侍女を飛龍が無言で制止する。
「きっと疲れたのでしょう。
後ほど私が起こしますから、少しだけこのままに…」
「殿下がそう仰るのなら……私はこのまま失礼させていただきます。
殿下…何卒、宜しくお願い致します」
切実とも言える侍女の眼差しに飛龍は頷きを返した。
「普通、この状況で寝るか?…大物だな」
部屋の扉を閉じて去っていった侍女の足音が聞こえなくなった頃に
飛龍が呟きをもらす。
困った様な…だけど、どこか楽しそうな様子で香雪を見てから、
窓に近づき僅かに開く。
花の国の名に相応しい美しい花々で
もてなしてくれる気持ちは有り難いけれど、
部屋に満ちる甘い香りは飛龍には強すぎる様に思えた。
「ん…?」
夜風に頬を撫でられ香雪がゆっくりと目を開く。
「あぁ、すまない。起こしたか?」
「っ!?飛龍殿下!?あ?え?何時の間に!?」
「今来た所だ。色々あって疲れたのだろう?
朝までとはいかないが…もう少し眠っていても構わないぞ」
「い、いえ、とんでもございません!
その…えっと…ふ、不束者ですが、末永く宜しくお願い申し上げます」
「あぁ、こちらこそ宜しく頼む」
飛龍が浮かべた笑みを見て、香雪の鼓動が早鐘の様にうちはじめる。
さっき見た笑顔とは違う、香雪の記憶の中の火の王子様と重なる笑顔だ。
「あ、あの、その…笑顔と、お話の仕方が…」
「さっきは王子でないと駄目な場所だったからな。普段はこうだ。
香雪姫は、王子らしい私の方がお好きですか?」
飛龍の顔と王子の顔を切り替えての問いかけに、香雪は力一杯首を左右に振った。
「私は飛龍殿下が…えっと、普段の殿下が………」
好きですと言いたかったのだけれど、
その言葉を紡ぐ勇気はなくて困った様に俯いてしまう。
「それなら良かった。それと…俺の我侭で政略に巻き込んでしまってすまない」
「いえ、あのっ!私は…私は……
あの…何故、春蘭姉様ではなく、私だったのですか?」
嬉しいんですと言えなくて、代わりに問いを投げかける。
「あ~、春蘭姫は苦手なんだ。性格的に合わないというか……どうもな」
困り顔で返された答えに、香雪は少し残念な気持ちになった。
決して、お前を愛しているからという類の
甘い答えを期待していた訳ではないのだけれど…
「そうですか。あ、あの飛龍殿下…ど、どうか、
たわ、わた…私を貴方の妻にして下さいまふぇっ!!」
……噛んだ、大事な所で噛んでしまった。
そうお伝えすれば、あとは殿下がきちんとなさって下さる筈ですと教えられた
一世一代の台詞を思いっきり噛んでしまった。
泣き出したい、逃げ出したい、穴があるなら入ってしまいたい。
「香雪、そう落ち込むな。ちゃんと伝わったから大丈夫だ」
涙目で俯く香雪の頬を飛龍の両手が包みこむ。
痛みを伴わない程度に強引に顔の向きを変えられ、
飛龍と香雪の眼差しが交差するが、
憧れの王子様に見つめられているという事実を受け止めきれない香雪は、
ぎゅっと目を瞑ってしまう。
「俺は…な。お前とならば、時間をかければ、
ちゃんとした夫婦になれると思ったから、お前を選んだ。
どういう夫婦がちゃんとしているのかは上手く説明出来ないが…
今は無理でも、お前なら、いつか妻として愛せる気がするんだ。
政略で結ばれた縁だが、妻としてお前を大切にする。
謙る必要も、過剰に謝る必要も無い、
望みがあるなら言えば良いし、困った時には頼ってくれ。
…香雪、俺の妻になってくれるな?」
降り注ぐ言葉にを受けた、香雪の瞳から次々と涙が溢れて来る。
想定外の事態への混乱か?
今、愛されていない事が悲しいのか?
それでも、大切にしてもらえる事が嬉しいのか?
拒絶されなかった事への安心感なのか?
様々な感情が溢れすぎて涙が意味する所は、
香雪自身にも分からなかったけれど…問いへの答えは決まっている。
彼に嫁けと命令されたから?それとも香雪が心の奥では望んでいるから??
…分からない、でも、これはちゃんと相手の目を見て伝えるべき事だ。
涙が溢れる瞳で、一生懸命に彼と目を合わせ「はい」と、
ただ一言だけを告げる。
伝えたい事は沢山あるのに、その一言を紡ぐだけで精一杯だった。
いつか、自分の中にある色んな気持ちを上手く伝えられる様になるだろうか?
ちゃんとした夫婦になって、
彼に『貴方を愛しています』と言える日が来るのだろうか?
…それは、不敬で恐れ多い事に思えて仕方がないけれど…
もしも、そんな日を迎える事が出来たら、幸せなのかもしれない。
そんな事を思いながら、香雪は飛龍からの口付けを受け入れた。