03
香雪が庭に出てきた時には、既に行列の先頭の方は城門の中へと入っていた。
護衛の兵が大勢居る事や、
香雪を乗せる為に飾り立てられた馬車が来る事は想像していたが、
後方には楽器を演奏する者もいるらしく、随分と賑やかな音楽が聞こえてくる。
事前に先頭で馬に乗り、行列を率いているのが殿下だと教えられていたが、
互いの距離はまだ遠く、
蘇芳色の正装を纏った長身で逞しい男性という程度にしか分からない。
少しずつ相手が近づいてきて、何とか顔が分かってくる。
緋色の髪に浅黒い肌の精悍な青年で、意思が強そうな鋭い瞳は真紅…
―――――火の王子様!
子供の頃に一度だけ会った相手だと気づき、香雪の鼓動はドクンと大きく跳ねる。
見間違いだと思って目を擦っても、彼の姿は変わらないし
夢かもしれないと思って手の甲を軽くつねれば、確かに痛みが伝わってくる。
誰とも知れない相手に嫁ぐ訳でなかったのは良い事だが、
幼い頃に憧れた王子様が、何故自分を妻にしたがったのかが分からない。
ただ一度の邂逅すら奇跡だったと思える程に遠い世界の人の筈なのに…
卑しい身である自分が隣に並ぶ事を許してもらえる相手ではないのに…
あまりの事態に頭の中が真っ白になり、足が震えてくる。
憧れの王子様のお嫁さんになれて嬉しい?
そんな訳がない!自分には無理だと心が悲鳴を上げる。
この場から逃げ出してしまいたいけれど、体は固まった様に動かない。
そもそも、逃げ出す事など許される筈がない。
香雪の気持ちなど無関係に、飛龍の乗る馬は近づいてきて、
彼が馬から降り、咲安王と王妃の前に進み出た。
「国王陛下、王妃殿下の直々のお出迎え痛み入ります。
白明を任されている煌 飛龍です。
末永くお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます」
そう言って、しずしずと頭を下げる。
「会ったのは随分と久しぶりだが、立派な青年に育ったのだな。
我が娘、香雪を宜しく頼む」
「飛龍王子、念の為に確認をさせて頂きたいのですが、
貴方が妻にと望まれるのは、本当にあの香雪で間違いありませんの?」
王妃の言葉を受けて、飛龍の目線が香雪を捉える。
目が合っただけで、香雪の目に涙が滲む。
何故そうなってしまったか?なんて、香雪にだって分からないけれど、
そのまま大声を上げて泣き出さずに済んだのは、
背後に控えていた侍女が
「香雪様、どうかお心をお鎮め下さい」と小声で告げてきたからだ。
『命令に従う』香雪の身にしみついた感覚が、
彼女の心身を侍女の言葉通りに制御しようと動き出す。
飛龍は直ぐに香雪から目線を外し、
「えぇ、間違いありません」と王妃に告げた。
「そう。それならば結構です。不束な娘の為に御足労いただき感謝しますわ。
ささやかながら宴の用意をしてありますので、
御同行の皆さんも是非ご一緒に」
「身に余る歓迎、恐悦至極に存じます」
滞りなく挨拶が済み、皆が宴の会場へと歩き始める。
当初の予定では、王と王妃への挨拶の後に、香雪が飛龍に挨拶する筈で、
王妃が皆を宴会場に呼び込んだ事で予定が狂っていたのだが
香雪はその事に気づく余裕すらない程に緊張していて、
石像の様に、その場に突っ立っていた。
「香雪様、殿下にご挨拶を…」
後方に控えていた侍女に小声で促され、ハッとなった香雪は慌てて動き始める。
「あのっ、飛龍殿―――かっ!?」
緊張のせいか?慌てたせいか?
香雪は衣の裾を思いっきり踏み、盛大に体勢を崩す。
しまった!と思った所で、時間を巻き戻す事など出来る筈もなく…
ただ転びたくない一心で、視界の片隅に入った何かを思いっきり掴んだ。
ブチッと何かが引きちぎれる音がした直後に、目の前の何かに額を打ち付ける。
どうやら転ばずには済んだらしい。
そのまま呼吸を整え、周囲の状況を確認する。
…何故だか空気が重く、こちらを見ている侍女の顔色が悪い。
「香雪姫、お怪我はございませんか?」
真上から落ちてきた声に顔をあげると…頭上に飛龍の顔があった。
「っ!?も、申し訳ございません!!」
飛龍に抱きとめられている自分に気づき、慌てて体を離し、深々と頭を下げる。
「いえ、お気になさらず。姫を守れたのなら、それ以上の喜びはございません」
香雪に向けられたのは優しい言葉と微笑み。
それなのに、何故か違和感を感じた。
火の王子様は、こんな人だっただろうか?
もっと優しく笑う人だった気がするのだが…。
時が経ち変わってしまったのか?それとも香雪の記憶が美化されていたのか??
大切にしていた思い出が壊れてしまった様で、微かに胸が痛む。
「では、参りましょうか。香雪姫」
目の前に差し出された大きな手に、香雪は自分の手を重ね…ようとしたのだが、
自分の手の中に何かが在る事に気づく。
ついさっき、咄嗟に何かを掴んだ様な…と思って手を開くと、飾り紐が一つ…。
嫌な予感を感じつつ、目の前の飛龍を見ると…
彼の衣装につけられた飾り紐の一つが無残に引き千切られていた。
「重ね重ね申し訳ございません!このお詫びは何としてでも必ず!!」
反射的に膝を突き、地に頭をこすりつける。
姫として仕込まれた事ではない、侍女時代に染み付いた所作だ。
「姫、皆も見ています。どうか頭をお上げ下さい。
飾り紐一つで貴方が傷を追わずに済んだのなら、それは私にとって僥倖です。
ですから、お気になさらず。共に宴に参りましょう」
度重なる失態にこの場から逃げ出してしまいたくなる気持ちを必死に抑え、
頭を上げ、立ち上がる。
「寛大なお心に感謝いたします」
香雪は深く一礼してから、飛龍の手に震えの止まらない自分の手を重ねた。
飛龍に手を引かれ、宴の席につき、人生で一番豪華な食事を口に運ぶが、
隣に飛龍がいる事や、正しい作法で食べる事が気になって
味など全く分からない。
自分には不似合いな華々しい席で笑顔の仮面を被り続けること数時間。
傍らにやってきた侍女に退席を促され、
宴の会場から出た時には既に精魂尽き果てていた。