32 魔戦④
――攻めるモノ、攻められる者、両者互いに破滅の刻を抱えて舞い続ける。
魔蝿が抱えるのは、エリスの罠によって負った炎傷と捨て身の特攻によって負った自損の傷。そのどちらも重く、魔蝿は完全な攻勢に立っておきながらじわじわと寿命を減らしていた。それでも構わないと、魔蝿は人ならざる知性の下に結論付ける。魔蝿にとって自らの命は二の次であり、至上命題は憎くて仕方が無い目の前の肉を、如何に惨たらしく殺してやるかにあった。
その憎悪の炎の矛先であるエリスが抱えるのは、全身に及ぶ怪我の数々であった。洞窟の岩肌による裂傷、魔蝿の突進で出来た打撲など――中でも酷いのは、魔蝿の謀略の突進によって受けた負傷である。全身の各所の骨や筋肉、神経に甚大な損傷を帯び、更には左腕が目に見えて壊れていた。肘から先が常より九十度外へと回っており、全体が蛇の様になだらかな曲線を繰り返している。何かを持つのは勿論、異様に破壊された左腕は、ただあるだけで全身の平衡感覚を著しく狂わせていた。
エリスの自動反応は最適化された、最速最短を通り続ける戦闘形態である。エリスの意思に関係なく働くそれは、確かに不意打ちや自衛において非常に有用だが――最速最短を通り続けるという事は、つまり遊びが無い事を意味する。だから、エリスは長期の戦闘になると身体が持たないし、魔蝿にあっさりと次の行動を予測されたのだ。最善手ばかりを選び続ける自動反応には、その大前提として常に与えられている状況が最善である事が挙げられる。言わば、次の一手においての最善しか考えておらず、全体を俯瞰しての最善手では無いのである。
故に、怪我を抱えていてもエリスの身体は全力の駆動を続けるし、それによって自身の速度が落ちようとも、エリスの自動反応が愚策を省みる事は一切無い。飽くまで無機質な反応であり、そこにエリス含め意思の介在は無いのだから。
比較して、両者で追い詰められているのはエリスであった。
振るわれる攻撃一つでもまともに受ければ死と殆ど等しく、回避を為す自動反応は肉体の傷を悪化させるばかり。身体が動かなくなれば、その時点で終わりだ。自らの生命線こそが自らを苦しめる展開。更に言えば、その生命線がエリスの意思下に無いのも致命的だ。
打開のしようが無い。もし、魔蝿が憎悪に染まっていなければ、まだチャンスはあったかもしれない。自らの保身を思い攻め手を緩めれば、自動反応はきっとこの場からの離脱を選択しただろう。何せ、目の前の最善手を選ぶのが自動反応であり、極一部の例外を除いて自動反応が自衛を目的に働いているのは明白だ。ならば、きっと退避を選ぶ。魔蝿は追わないだろう。憎悪に燃えていない常の魔蝿なら、傷を癒す事を優先した筈だ。喰い甲斐の無さそうな矮小な餌など目もくれず、回復を選んだはずである。
しかし、今ここに居るのは憎悪に燃える魔蝿である。己を愚弄され、子を殺され、怒りに自らの傷すら忘れる魔蝿は、エリスを逃しはしない。逃げれば追う。何処までも、残された命尽きるまで追い続ける。単純な移動速度が魔蝿の方が上な以上、エリスに逃げられる道理は無い。やはり手詰まりだ。考えるだけ無駄な類の思考実験であった。仮に肉体の支配権がエリス自身にあったなら、彼はきっと極大の溜息を吐いていただろう。
魔蝿の突進――共に放たれる鋼鉄の羽による面制圧の攻撃を、エリスの肉体は大きく飛び退く事で躱す。余裕は非ず。今回は服と皮数枚が持って行かれた。一撃毎に余白が失われていく。次か、それともその次か、はたまたその先がまだあるのか。エリス自身、肉体の内から外へと追いやられた中での希薄な感覚では、その答えを出す事は出来なかった。ただ、そう遠くない未来に魔蝿の攻撃に捕まる未来が見える。そして、その未来はきっと変える事の出来ない未来だ。
何度見たか、既に見慣れた魔蝿の突進。エリスの肉体は途絶える事無く続いている自動反応により回避に移ろうとして――不意の脱力に膝を折った。痙攣する両足。痛みを超え、感覚が無い。傍観者であったエリスをして、両足が手酷く壊れている事を悟った。良くここまで動いたと驚くべきか、良くこの足で避けられたと称えるべきか。そんな逃避の思考を巡らしながら、眼前に迫る魔蝿の顔を眺めた。
そして、激突。
真正面から魔蝿とぶつかる。羽に近い硬度を誇る外骨格と、全身に多大な負傷を抱えている人間との衝突では、どちらが壊れるかなど目に見えて明らかだ。エリスの身体は左腕と同じく砕け、曲がり、拉げる。派手に吹き飛ばされ、坑道の外壁と地面に数度ぶつかって、エリスの肉体は地面にうつ伏せに倒れた。
動かない、動く訳が無い。
身体の内も外もぐちゃぐちゃになり、視界が様々な色に明滅を繰り返す。全身から脳に伝わる危険信号。痛覚の氾濫に脳が正常な働きを辞めてしまう。痛みが遠のき、訪れたのは猛烈な眠気だ。瞼が途端に重くなる。それに抗おうとして、エリスは肉体の支配権が自分に戻っている事に気付いた。ミカエラとの模擬戦闘の時もそうだったが、自動反応は現状が覆しようの無いものになると薄情にも簡単に諦めてしまうらしい。異論は無いが、勝手に奪っておいて一方的に突き返すそのやり口に、思う所が無いでも無かった。
視界に影が落ちる。魔蝿だ。両耳は奇跡的にもその機能を喪失しておらず、十全に魔蝿の気配を伝えてくれる。粘着質な、何かを擦り合わせるような音。上を向く事すら出来ないエリスには分からないが、それは魔蝿が自らの口を開閉する音だった。目の前に無様に転がる怨敵を前に、魔蝿は自分の復讐心が満たされていくのを感じていた。歓喜を胸に、魔蝿は舌なめずりをしているのである。
そんな事など欠片も知らないエリスは、諦めの境地で被食の時を待っていた。ここからの逆転は不可能だと、彼は十分なまでに分かっているのだ。後悔も無い。疲労困憊、満身創痍な彼らや顔も知らぬ他の人達に任せる事になるのは心苦しいが、きっと、エリスより強い人ばかりである。更に言えば、罠による爆発で痛手を負わせる事には成功しているのだ。エルドレッドの言う通り、怪我の一つも負わせられた――十分な戦果だろう。わざわざ自分が勝たなくても、人間の勝利は決まっている様なものだ。
だから、安心して死ねる。自分だけで被害が済むならば、それだけで今のエリスは笑う事が出来る。
――そして、だからこそ。エリスがその声を聞き逃すなどあり得ない。
「――ひぃっ」
小さな、余りに小さな悲鳴。必死に殺したのだろう、懸命に呑み込んだのだろう。それでも口の端から漏れた、恐怖の囁き。それは被食と捕食だけの関係にあった両者に届いた。届いてしまった。
――魔蝿の意識が自ら外れたのを、エリスは嫌という程感じ取った。