30 魔戦②
「まずは状況把握ですけどね」
軽く一歩目を踏み出したからと言って、戦いを始めると意気込んだからと言って、いやいや、誰も無策で突っ込むとは言っていない。それは勇敢とは言わない。蛮勇だ。敵はエリスの数倍、否、十倍以上の大きさは誇る生物である。何でそんなに大きいのに、こんな閉所に入って来たのかを意思疎通が可能なら是非とも聞いてみたい所だ。エリスにすれば十二分に高い――というか、ただの坑道にしては異様に高い天井だが、魔蝿にしてみれば窮屈極まるだろうに。飛行も出来やしない場所に、何故引き篭もったのだろうか。案外、巨体に似合わず引っ込み思案な性格なのかもしれない。
エリスは生命の謎に思いを馳せながら歩き、坑道全体を大まかに把握していく。右手にはつるはしが一本。道中に落ちていたので、勝手ながらに拝借した。取り回しもそれ程悪くなく、「自己満足」が手元に無いエリスにしてみれば唯一の武器だ。彼我の戦力差を考えれば誤差の範囲だが、それでも頼もしさが違う。
ある程度分岐を進めば戻り、道が複雑な選択肢は道端に落ちていた石や端材を盛る事で目印とする。目印の意味は、「この先進むべからず」。逃走、もしくは攪乱をする場合、必要なのは――二重の意味で――迷わずに済む事だとエリスは考えたからだ。
背後から魔蝿が迫っており、目の前には二手に分かれる道がある想定をしたとする。その時、どちらの道を行くのかを迷うのは論外だ。迷うよりも早く逃げるべきである。だが、逃げた先で袋小路に陥ったり、自分の所在地を見失うのも問題だ。そうなれば、遠からず魔蝿に追い付かれる。
故に、エリスは複雑化する選択肢を排し、単純で分かりやすい選択肢だけを残していく。坑道とは人が作業する為に作られたものであり、それが意図に従って広がっている以上、ある一定以上の効率化が為されている筈だ。目的地への移動、物の運搬等、最短であったり、汎用性であったりを考えられているだろう。ならば、それを汲み取る。複雑な道はつまり、その先は分かり易くなくても良いとされた作業専用の空間である可能性が高い。逆に、単純化されている道は利便性を選んだ末のものだろう。今のエリスに必要なのは後者だ。
時間が限られているからこそ、たっぷりと地理把握に時間を割く。そうして歩き回っていると、エリスはある物を見つけた。
「これは……」
それをエリスは知っている。夜な夜な読み耽っていた本の中に、これについて書かれたものがあったのだ。それの効果と使用方法を思い出し、エリスはそれの秘める有用性に小さくほくそ笑んだ。
魔蝿は暗闇の中で眠っていた。
意識は完全に閉じていないが、身体の働きの殆どを休息に当てていた。今、この身は疲労とに満ちており、それに耐え忍ぶためには眠る他なかったのだ。これが回復する類の症状では無い事も魔蝿は知っていたが、未だ倒れぬ訳にもいかぬこの身を持たせる為、痛苦すら押し退けて睡眠に勤しんでいた。
そんな中、こつんと鳴った音と身体に響いた小さな振動に魔蝿は目覚めた。周囲を探り、一つの影を見つける。この身に比べれば何と小さな事か。矮小な肉体、手に握る棒きれ擬きにも脅威は何ら感じず。――だからこそ、魔蝿は腰を上げた。今の魔蝿は、睡眠と食事の二本に専念した一日を日々送っている。故に、目の前に転がり込んできた餌を見逃す理由は無かった。食い甲斐は無さそうだが、栄養はありそうだ。喉を下る肉の味を想像しながら、魔蝿は餌に向かって接近する。巨大な羽を使って――では無い。魔蝿は六本の足を用い、さながら飛蝗の様に飛び込んだのだ。迫る巨体に、餌である影は背を向けて逃げ出した。それを悠然と、魔蝿は追う。
近付いては遠ざかりを何度も繰り返す。餌は小賢しくも逃げ回り、幾度と眼前まで迫っては取り逃がした。餌の回避が都合二十を超えようとした頃合。そろそろ人の情動に従った言葉で表すなら、魔蝿が辟易し始めた頃。影は走り回っていた足を止めた。ようやく喰われる気になったかと、捕食者の余裕を疑わない魔蝿は、じりじりと餌に近付く。
その時、餌が嗤うのを魔蝿は見逃してしまった。見ていても気に留めたかは分からないが、それでも餌の企みの起こりを見逃した。そして。
――魔蝿の世界が崩れた。