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エリスが居る場所  作者: 改革開花
三章 泥の底で光るモノ
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29 魔戦①

 「すみませんでした」の一言に謝罪と別れの意味を込めた(つもり)になっているエリスは、丘の上で魔術師の彼女が憤慨している事など露知らずに、魔蝿の親の根城と思われる地点に向けて歩いていた。

 森は歩行者を真っ直ぐ歩かせてはくれない。道を木が遮り、崖に道が途絶え、坂や木の根が知らず知らずの内に歩く向きに干渉する。森で直進に意固地になっても、森の見えざる力によってそれは叶わない。ならば、直進に固執せず、寧ろ迂回すべきなのだ。重要なのは目的地を見失わない事であり、直進する事では無い。

 無論、迂回した分だけ距離は伸びる。だが、その程度で音を上げるならば騎士落第だ。如何に等身大の身体能力しか持たないとは言え、エリスもまた騎士団に所属している。日々の訓練の甲斐あって、森での移動に然程苦労はしなかった。――否、寧ろ楽だとすら感じている。どうにも、身体の調子が好過ぎる(・・・・)のだ。足を踏み出す度に力が沸き起こるようであり、移動による疲れなどどこにも在りはしない。奇妙ではあるが、エリスは特に害らしき害も無いので考えるのを止めた。自動反応にせよ、謎の好調にせよ、害が無いなら放置していても問題はあるまい。今ここで最優先すべきは魔蝿の親の討伐であり、それ以外は二の次だ。


「ふぅ……」


 一息吐いて、眼前の壁を見上げる――傾斜を見るにあるいは土石の小山と言うべきなのかもしれないが、内と外を隔てる障害として、紛れもなくこれは壁であった。高さはエリスの身長の二倍から三倍弱と言った所か。洞窟の入り口を完全には塞いでおらず、上の方にはそこそこの広さが空いているのが見て取れる。魔「蝿」と言うからには、きっと飛ぶのだろうから、恐らくあそこは魔蝿にとっての出入り口かと思われる。

 視線を岩壁に落とす。

 丘から遠見した時に見えた白い何かは、間近で見ると固体と液体の中間に位置する、非常に高い粘性を有しているらしかった。岩と岩の間を繋ぐ土を、更にその上から薄く覆う形で白い粘液が繋いでいる。触るのは躊躇われるので、足元に落ちていた小石を投げつけると、小石は白色の粘液に当たるも大した音も立てずに引っ付き、二度と離れる事は無かった。白色の粘液が持つ粘着力は、重力の束縛すら断ち切る強さのようだ。――つまり、この白色の粘液は「鳥もち」なのだろう。壁の接着剤の効果は飽くまで副次的なもので、本質はこの壁に不用意に触れたものを捕らえる罠としての側面にあると見える。根城と罠の両立を兼ねている辺りは、蜘蛛に近しいものも感じた。要するに、魔蝿は被食者・捕食者で言うなら捕食者の部類に入るようである。


「さて、どうやって入ろうか」


 問題はその一点だ。中に入らなくては始まらないのだが、中に入るにはこの壁が邪魔である。不用意に触れれば魔蝿が喜ぶだけであり、それは却下だ。ならばこの壁を何らかの方法で攻略するか、ここ以外、壁を避けて中に入るべきなのだが、


「そんな時間も無いか」


 現状、エリスは執行猶予の身であると言っても過言では無い。限りなく黒に近い灰色であり、温情による猶予が与えられているに過ぎない。故に、エリスには可及的速やかな身の潔白の証明、つまりは魔蝿の討伐が求められる。また、魔蝿の親をほんの少しでも放置するのは、極論ではあるが罪なき民に魔の手が及ぶのを看過するのに等しい。これもまた、騎士であるエリスが選んではならない選択肢である。

 それらの事情もあって、エリスはこの壁を乗り越えて洞窟の中に入る事にした。差し当たって必要なのは壁を乗り越える方策であり、それは簡単である。粘液に振れるのが拙いのなら、一枚間に別の物を挟めば良い。それは何でも良い。例えば、服であっても良いのだ。

 エリスは自分の着ていた上半身の服を一枚脱ぐと、力の限り布を引っ張ってビリビリに千切った。細切れになった布切れを両手に二つ構え、残りはズボンと腰の隙間に捻じ込むと、壁に向かって手を付く。べたりと、布切れが粘液に囚われる。二度とこの布は離れないだろうが、それを持っていた手は別だ。粘液の下にあるのが土や岩の類である以上、粘液の下は十分な固さを有している。ならば、粘液を無視できる緩衝材さえ用意出来れば、後は岸壁登りでしか無い。多少手が掴み辛いが、そこは足で支える事で何とか相殺する。これが身長の何十倍もあるのなら話は別だが、この壁は精々がエリスの身長の三倍弱。足任せの登り方でも疲労し切る前に登り切れる。足で素の地面を蹴り、手を次の場所に置く。足は寸前に手を置いていた場所まで引き上げ、後は繰り返し。

 そうして、多少苦労しながらも壁を乗り越え、エリスは洞窟の内部に入る事に成功した。


「暗いな……」

 

 分かり切っていた事だが、洞窟の内部は非常に暗い。入り口であるこの地点ではまだ、入り口上部に空いた隙間から光が差し込んでいるが、それも奥までは届いていない。数十歩も歩けば、辺り一面真っ暗になるのは想像に難くなかった。かと言って、灯りの類は持ち合わせていない。読書用にルシオルを持って来ていたが、それらも全てエトッフの宿である。セシリアみたいに魔術で万事解決、ともいかない――が、魔術という考え自体はアリかもしれないと思い至った。

 

「いけるかな……」


 差し詰め、暗所での猫の様に瞳を順応させて闇を見る。人の目に猫並みの順応能力は無いが、そこは叡智の欠片で補う。自己強化、対象は目。遠見の際の光量の調整の応用で、受光量を下げるのではなく上げる。僅かな光も逃さんと、目に飛び込む光の粒子を全て受け取る。数度の挑戦、失敗の末、エリスは何とか視界の確保に成功した。精々が三日月の夜程度の明るさでしかないが、何も見えないよりは十分である。

 エリスは意を決して、洞窟の奥へと踏み込んだ。




 ここはどうやら採掘場であるらしく、道は人が通れる程度には広くとも、分岐の複雑さにおいてエリスを苦しめた。何度も道を誤っては戻るを繰り返し、不屈の再挑戦を繰り返す事およそ三十分。遂に、目的の相手を見つけた。

 見つけたのだが。


「……ハエ? あれが?」


 壁に背を預け、僅かに身を出して奥を覗き込む。

 坑道の集合地帯の為に、ちょっとした広場になっていた場所を本格的な居住区としているらしく、付近には「食べ残し」が散乱していた。腐敗臭と血の匂いが辺りの隅々まで染み込んでおり、かなり不快感が煽られる。だが、それ以上にエリスが意識を向けているのは、この地の君臨者だ。

 まず、顔の部分で目立つのは真ん丸とした複眼だ。これは分かる。蝿なんだから複眼だろう。何も問題ない。次に、鋭い鎌みたいな部位が二本生えている口。これもギリギリ許容出来る。口の部分を良く見た事などエリスには無かったが、拡大したらああいう形なのかもしれいない程度には受け入れていた。問題は顔の後ろ、羽を飛ばして胴だ。顔の十数倍の長さにもなる胴体。尾は丸く尖っており、恐らくは管になっている――全体の比率も相まって、まるで蝿ではなく蜻蛉であった。

 そして何より異常なのが大きさだ。坑道の隅から遠目に、自己強化も受光量の増加以外には用いていないのも関わらず詳細に見える身体の各部位。複眼は人間の拳大の丸いものが幾つも集まった様な見た目で、胴に至っては人間の数倍の体積はある。流石は人類にとっての災厄の権化。凡百の生き物とはスケールが違う。ある種感心すら抱いて、エリスは放心していた――勿論、現実逃避である。

 精神の一部が欠落し、抜け落ちた今のエリスであっても、本能や理性が無くなった訳ではない。本能は魔獣に対する根源的な恐怖を訴えており、理性は極めて冷静に彼我の体積差に絶望を抱いていた。

 それらを極めて冷静に受け流し、エリスは足をこの場に留める。これが周囲に他の人間が居たなら話は別だが、ここには幸い(・・)な事にエリス一人しかいない。幾ら下手を打とうとも、この戦闘において死ぬのはエリス一人だ。素敵な文句である。この状況の気楽さに、エリスの口は思わず緩む。


「さて、殺し殺されますか」


 今日の天気を占う程度の軽さで、エリスは戦いの一歩を踏み出した。


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