26 芽吹くは
――少年は死んだ。
心臓は止まり、血液は既に循環していない。必然、各組織は緩慢に停止に向かう。少年の肉体は、命無き有機物に成り下がる。これは、既に決定した未来であり、現在である。
だが、意識は、精神は違った。
少年の意識は肉体から抜け落ち、しかして霧散することなくある場所に導かれていた。巨木、大樹。枝葉は大地を支え、そこには無数の命が、生命の営みがある。幾つも点在する大地は、幾つも存在する大陸であり、世界であり、歴史であった。
空を覆い貫くは、世界を体現せし一本の樹。それが抱える大地――否、土地が一つ、庭程度の広さの草葉萌ゆる地に、少年の精神は招かれていた。
「ここは、あの時の」
精神とは言えども、その在り方は生きていた頃と殆ど変わらない。五体は確かに存在し、青い草葉を素の足が踏み締めている。しかしながら、これが精神が形を成しただけであり、自分は死んでいるのだと、少年は確かに理解していた。そうでなくては、胸に穴が開いたままで平気な訳が無い。背中まで通じているその穴は、少年が自らの愛剣を突き刺した場所だ。
覚えがある。これ以上なく分かりやすい、自害の証明だ。
少年は自らの穴から視線を外し、辺りを見渡す。狭い、とは言わずともそこまで広くも無い。ぐるりと一周すれば、障害物が無い事もあって全てを視界に納める事が出来る。ゆっくり一周し、少年は眉を顰めた。
「何も無い」
そう、何も無いのだ。あるのは緑色の天蓋と、素足を擽る草達と、自分だけ。それ以外は何も無い。遠くに見える他の大地の様に、何か動物がいる訳でもない。掛け値なしに、ただの草原、もしくは芝生の庭だ。
やる事も無いので、少年は草原に身を投げ出してみた。ごろりと、天を向いて横になる。柔らかな涼風が頬を撫でていく。風に揺れる緑の合唱に耳を傾けながら、しばし呆ける。
――思えば、今までで一番落ち着いているのかもしれない。
目覚め、今まで続いてきた少年の記憶の中で、一番の安楽の時がここにはあった。罪悪感から、無力感から、焦燥から、嫉妬から解放される。恐怖や苦痛、絶望もここには無い。ある意味では、尊敬や好意だって持つ必要すらないのだ。何せ、誰も何もいない。何せ、既に死んでいる。ならば、何もしなくていいし、何も出来やしない。
「ああ、なんて楽で、なんて安らかで……」
何で、こんなにも悲しいのだろう。
死んだからだろうか。違う気がする。
孤独だからだろうか。それも、少し違う。
少年は自らの内に答えを求め、しばらくして気付いた。
「そうか、もう皆に会えないのが悲しいんだ。自分がもう、「エリス」じゃない事が悲しいんだ」
少年にとって、自らの名前は絆であり、繋がりであり、自らを自ら足らしめる証であった。少女に貰った名前は、記憶を持たない少年に確かな在り方をもたらした。そこから歩んだ軌跡は、決して記憶喪失の少年の軌跡では無く、「エリス」の軌跡である。
ああ、ならば。既に死んだ自分は、この悲哀を未来永劫背負うのか。何時か精神すら消えるまで、この悲哀を抱き続けるのか。それはとても――
「嫌だなぁ……」
「そっか。じゃあ、生き返ってみる?」
いつの間にか瞑っていた目を開くと、そこには一人の女性が――いや、女性なのだろうか。中性的な顔立ちの為、男女の区別が付き辛い。髪は長く更に性別の判断を悩ませ、容姿は控え目に言って、美男美女の領域だ。白色で素朴なデザインの衣服に身を包んでおり、服の色も相まって儚げな印象を受ける。
少年は慌てて立ち上がり、突如現れた自分以外の人間に向き合う。目の前の相手が言った荒唐無稽な一言に、少年の仮初の心臓は早鐘の如く鼓動を響かせていた。
「あなたは、いえそれよりも……」
「驚かせちゃったかな? ごめんね、本当は私の方が早く着くつもりだったんだけど遅れちゃったのさ。……よし、仕切り直そう。まずは名前だね。そうだね……私はある意味で君と同じ『名無し』でね。本当の名前もあるにはあるんだけど、言う訳にはいかないのさ。……よし、ここは『イグ』と名乗るとしよう。イグ、可愛らしい響きだろう? 気軽にイグちゃんと呼んでくれても構わないよ?」
少年以外唯一の人間、イグは、朗らかな笑みを浮かべて喋る。その笑みに警戒と驚愕が抜けていくのを感じながら、少年はその声が何処かで聞いた事のある声に感じて――そんな感情を遥かに超える衝動が、無意識にイグに喰いかかる様に少年を動かしていた。
「生き返れるって! それってどういう――」
「まぁまぁ、焦らない。順を追って説明するよ。時間に限りが無い訳じゃあ無いけど、説明なしなのはどうかとも思うしね」
そう言って、自らの襟元を掴みかかる少年の手をイグはゆっくりと外していく。それに伴い、少年の内で燃える激情が鎮まる。まただ。この声は、少年の心を無理矢理平静に持って行く。
「まずは、そうだ。どうやって、の部分の説明をするとしよう」
イグは両手をゆっくりと前に伸ばし、軽く握る。見えない棒を掴んだ体勢で、そのままその棒を自らに突き刺した。
「君は死んだ。これは間違いない。だから、今からするのは治療では無く蘇生だ。……君が突き刺した剣には、君が死んで尚魔力が満ちている。ほら、君が自分の身体を取り戻す為に送り込んだ魔力さ。身体から溢れた分と、君が死ぬ事で行き場を失った魔力の全てはあの剣に集まった。……あの剣は原材料の性質上、かなり特殊な部類でね。訳あって、私に繋がっている。私が君の残した魔力を使い、あの剣の性質を引き出せば、まあ生き返れる。――おっと、君はあの剣の性質を知らなかったかな? いや違うね、勘違いしていたのか。まぁ、良いとしよう。ここでその勘違いを正しても、君の蘇生とは関係ない。興味があれば、生き返ってから調べてくれたまえ。とにかく、君は生き返る。生き返る事が出来る。それだけは確かさ」
蘇生に関する保証が為される。知らず知らず、少年は静かに息を零していた。
「次に、その後。生き返った後について考えよう」
イグは三本の指を、少年に見せつける様に伸ばした。
「君が生き返る。これは良いとしてもだ。生き返った後、君は当然ながら幾つかの問題を抱える事になる。一つ、死者の蘇生などという、超常現象に対する追求だ。特にあの場に居た魔術師は、君に詰め寄る事だろう。ま、それは私にはどうする事も出来ない。がんばれとしか言えないね。がんばれ。二つ目、君の自我の証明だ。君はテイマーフライと呼ばれる魔獣――を改造、もしくは改悪した人工魔獣である魔蝿の子供に身体を乗っ取られていた。生き返ったとしても、周囲からすれば君の意識が魔蝿のそれなのか、正常のものなのか判別がつかない。いや、判別がついても、それを信じる証拠が無い、と言った方が正しいかな。君には、自らの意識を証明する必要がある。まぁ、これは簡単だ。魔蝿の『親』を殺せばいい。君が親を殺す事が出来れば、周囲への証明としては十分だろう。何せテイマーフライの親子は、親が子に対する絶対的な命令権を持っているからね。魔蝿の子に、親は殺せない。その関係は反逆が不可能な隷従関係に近いと言える。ならば、逆説的に親殺しを達成できれば、君は自らの潔白を証明できるって寸法さ。……そして三つ目。これは、二つ目に由来する」
そこで言葉を切って、イグは笑みを深めた。何故だか、そこに嗜虐的な色が見え隠れしている。
「三つ目、君一人で魔蝿の親を倒さなくてはならない事だ。無実の証明、自我の証明なのだから、一人でやらされる事になるのは……自明の理だよね。魔獣を倒す。君はその難関をただの一人で乗り越えなくてはならない」
いつもの自動反応と似た感じで、傍観者として戦闘を見ていた故に子ではあるものの魔蝿の脅威を知っており、尚且つ過去の経験から魔獣という存在の恐ろしさを体感している少年としては、その言葉に一際強い絶望を覚えた。が、意志は変わらず。少年は震える足を殴って黙らせ、毅然とした目でイグを見た。
「うん、なるほど。決意は十分と。よろしい、ならば始めるとしよう」
イグを中心に、光の円が現れる。円は幾つも生まれては外へと広がり、年輪の様に幾層にもなって二人を囲む。円の間には何らかの言語が。少年には読めないその言語は、瞬く間に円と円の間を埋め尽くしていく。
そして円の発生が終わり、祝詞と呪言も止まる。完成したのだと、ただただ圧倒されながらも少年は理解した。そして、円の形をした複雑怪奇な紋様が痛い程輝き――不意に、イグは思い出したかのように口を開いた。
「ああ、そうだ。お代について言っていなかったね」
イグの言葉に、少年は疑問符を浮かべる。確かに、ただで生き返られるとは随分と羽振りが良いと思っていた。そも、生き返る事自体が奇跡な為相場なんて分かる筈も無いが、それでも値千金、万金億金の話だとは理解出来る。それでも少年が疑問を覚えたのは、今の少年に払えるものが何もなかったからだ。
その顔を見て、イグは笑みを消した。代わりに、双眸へと仄暗い光が灯る。ぞくりと、背筋に悪寒が奔った。
「君が払うお代――代償は、君の魂、分かりやすく言えば精神だ。生き返るにあたり、私は君の精神の一部を削ぎ落とす。そして空いた空白に、私の分身を埋め込む。まぁ、これは蘇生にあたって必要な行為でもある。こうでもしないと私は、君が残した魔力に関与できないからね。精神が欠けてどうなるかは、まぁ欠けた人間を見たことが無いので断言できないかな。そこは私にでも、どこぞの神にでも祈っておいてくれたまえ」
物騒な事を言い残して、少年の――エリスの魂は草原から弾き出された。