幕間 悲痛の理想
少女にエリスと名付けられ、初めて名前を持った少年は、その名前を抱えたままで絶命した。それは紛れも無い事実である。エリスが自身に刺した愛剣の切っ先は背中から飛び出、その過程にある物の悉くを切り裂いていた。肉が、内臓が、骨が、神経が。人体を支え、維持する重要器官が壊れた彼に、生の道は残っている筈も無く。
少年の命、その対価として魔蝿の子もまた死に絶える。過ず貫いた悲壮の刃は、魔蝿の子に一切の抵抗を許さなかった。それは自害という究極の選択を選んだ少年に対する、ささやかな褒賞。少年の命は無駄に終わることなく、彼の望み通り、魔の存在を道連れにして死に絶えた。
――おめでとう、少年。君は打ち克ち、尊い勝利を収めた。ある男の心に傷を残して。
男には夢があった。理想があった。
姫神と呼ばれる騎士が「誰も斬らなくていい、殺さなくていい世界」を目指す様に、男にも目指すべき世界があった。とある一人の戦友の犠牲から始まった、尊い理想があった。――男の理想への一歩は、奇しくも今と同じく、魔蝿に冒された人間の死を見届けた所から始まった。その男が今際の際に残した言葉が、今も男を突き動かしている。
『俺、あんたの笑顔が好きだ。だからさ、笑ってくれよ』
その時の笑顔は、きっと今までのどの笑顔よりも不格好だったろうに。死に行く彼は、満足気な笑顔で逝った。その笑顔が、目の前の少年の亡骸に凄く重なる。
「なぁ、グリニー。俺はまた、守れなかったよ。笑顔も少し、自信が無い」
守れなかった野郎なんかの笑顔が好きだと言ってくれた。こんな奴の笑顔で、満足気に彼は死んだ。――だから、彼が好きな笑顔を続けられる様に、自分が笑っていられる世界にしようと思った。究極の独善、しかしてそれは呪いに等しい誓いである。自分が笑顔でいる為に、男は他人を守ると誓った。妥協は許されない。黙殺はあってはならない。出来る限りの全てをこなし、守れる全ての人間を守って初めて、心の底から笑顔でいられるだろうから。
――また一歩、理想から遠のいた音がした。