25 魔に堕ちて⑤
皮が裂かれ、肉が抉られ、命を繋ぐ血管に届く――寸前、ミカエラの剣がエリス擬きの手首を切り離した。エリス擬きはラルフから離脱する。その際に目敏く、落ちる手首から「自己満足」を回収していた。ラルフは自らの喉に開いた穴に手を当てて止血する。場所が場所だったが――幸い、血管に傷は付いていない様だった。失血死の心配が無いと知るや、ラルフは喉から手を放す。
「助かった、ありが」
「礼は良い。今は敵を殺す事のみに集中しろ」
ミカエラの言葉に、ラルフは小さく呻く。それが聞こえたのか、ミカエラは現在進行形で裂けている右足の激痛を押し殺しながら、ラルフの胸倉を掴んで吠えた。
「良いか、あれは化け物だ。魔獣だ。敵だ! あれはエリスではない、あれは人間ではない! ならば、私達はどうするべきだ。答えろ、ラルフ!」
ミカエラの言葉の証明とばかりに、エリス擬きは驚愕の行動に出た。自らの手首の断面へと、「自己満足」を突き刺したのだ。途端、肉と剣が蠢き、膨張する。見る間に体積が増え、数秒の間に喪われた手が再生していた。ミカエラはその光景に目を剥きながらも、ラルフへの言葉を止めない。
「見ろ、あれは人間か!? 違うだろう! 貴様はエリスの形をした化け物に生きていて欲しいのか。エリスの尊厳を守りたいのか。どちらを選ぶのだ!」
「俺は、俺は――!」
「ふむ、ふむふむ。――では、私が殺してあげるとしましょう」
騎士二人の背後から、暴虐の炎が、鋭利な風刃が、激流の水波が、圧潰の土石がエリス擬きへと殺到した。
――黒一色の世界を揺蕩う。
肉体は無い。剥き出しの意識だけが、何もない世界で浮かんでいた。何も無い世界は、退屈すら覚える事が出来ない。退屈という感情すら、黒色の何処かへ消えていく。
だから少年にとって、それは久方ぶりに実感出来た情動――ともすれば、この世界に生まれて初めての驚きだった。腕があるのだ。否、腕と呼ぶには短い。正確には手首より先があるのだ。見る為の目が無い以上、その存在を視認は出来ないが、感覚だけが確かにある。感じる脳も無い筈なのに、意識へと直接触感が叩き込まれているみたいだった。
しばし、手の感触に酔う。体感では幾星霜ぶりの触感――更に言うなら、感覚である。好奇心に近しい感情のままに、彼は黒色の世界で手の感触を堪能していた。
しばらくすると、感覚を感じる部位が増え始めた。手の次に足が、その次にもう片方の手が――この時、初めて自分が最初に感じた手が、「右手」だったのだと認識した――、次に右の脇腹が。気が付くと、黒色の世界に自らの肉体が出来上がっていく。出来上がった肉体は頻りに痛みを発していたが、それすらも少年の意識は味わっていた。
そして何度目かの感触の到来で、遂に少年の意識は目を手に入れた。
光が飛び込む。黒色に慣れた意識には辛い輝きがある。たっぷりと時間を掛けて、目を慣らす。次第に輪郭が掴めるようになり、色が鮮明になる。世界にはこんなにも色があったのかと愕然とする中、視界に三人の男女を見つけた。
知っている気がする。自分はあの三人を知っている気がする。
一人は背の高い、大柄な男だ。全身酷い傷を負っており、衣服を血の色に染めている。身の丈程の剣を握り締めているが、その剣先は地面に向いたまま、持ち上げられる気配は無い。弱々しい目が、こちらを見ている。――なんとなく、その目は似合わないと思った。
一人は凛然とした空気を纏う女だ。こちらも全身に傷があり、中でも右足の負傷は見るに堪えない。そんな彼女も、力無い目をこちらに向けている。――らしくないと、そう感じる。
最後の一人は、人の紛い物が人を演じている様な、奇妙な不快感を覚える男だった。こちらに向けて炎を風の刃を水の奔流を土石の礫を放ってくる。
どうやらこの黒の世界の外側では、肉体と人擬きの男が戦っているらしかった。そう気付いた少年の意識は、何故か感謝と罪悪感、そして焦燥感を覚えた。何故かは分からない。だが、それらの情動が湧き出るのだ。
申し訳なかった、有難かった、どうにかしたかった。
それらの衝動のままに、少年の意識は外の世界を見る。二人の騎士の苦し気な表情から目が離せない。そんな顔はして欲しくないと、切に思う。そして、そんな顔をしてくれる事に幸福が止まらない。
黒の世界から、何もない世界から解き放たれて、少年は涙を流す。この感動があるのなら、二度も、この世界から救ってくれた喜びに報いる為になら――。
自らの内に意識を没入させる。薄汚れた黒色では無い。意識の内にある、自分だけの世界を目指す。先までの肉体を持たない頃なら不可能だっただろう。剥き出しの意識では、潜り込む先が無いのだから。だが、今は肉体という境界が、器がある。ならば、それを指標にし、内側を目指す事も可能な筈だ。何時だったか、遥か昔に教わった気がする方法。自らの意識の内に肉体を想起し、そこに路を繋げる。後は、そこに魔力を乗せて流し込むだけだ。
今の少年の意識は、形こそあれどその強度は余りにも弱かった。陽炎より薄く、砂上の楼閣が如き脆さを持っている。それでも壊れていないのは、偏に強靭な意志による支えがあるからだ。報恩を成し遂げる為に、少年は不可能の壁を乗り越える。
遂に、少年は路を作り上げた。外側の世界へとただ我武者羅に、有りっ丈の魔力を運び――
『がぁああっ、あ、あ、あががああがああがあが』
外の肉体が悲鳴を上げる。同時、少年の意識は諸悪の根源を見つけた。流し込んだ魔力を拒む存在。無色の世界を侵した黒色と同じ、悍ましさを感じる明らかな異物。それが外の肉体の一部、脊髄のある箇所に同化していた。ならば、手段は一つである。
慮外の反逆に、異物の支配が僅かに緩んだ。その隙を突き、少年は――エリスは自らの肉体の支配を取り戻す。急激に増えた感覚器官からの情報量――中でも痛みの類を堪えつつ、少年は為すべき事を為す。手中に握られているのは、自らの愛剣「自己満足」。望まぬ結果を強要させる事に、この期に及んで僅かながらの罪悪感を覚える。視界の端では、ラルフとミカエラの姿がある。一瞬、目が合った錯覚に陥る。それらの逡巡を、エリスは一息に振り切った。そして――、
「ありがとうございました、さようなら」
エリスは両手で愛剣を握り、自らの肉体へと突き刺した。