23 魔に堕ちて③
エトッフに迫っていた魔蝿の脅威は、レイ・アルトイェットの獅子奮迅の活躍によって打ち払われた。死者四十三人、負傷者十四人。決して少なくない犠牲だ。それでも、魔蝿によって起こる筈だった悲劇を思えば、これは勝利と言ってしまっても良い。犠牲が高々この程度で済んだ事を喜ぶべきである。
では、エトッフ郊外の森。エリスを追い、変わり果てたエリス達と出会った三人――ラルフ、ミカエラ、エルドレッドはどうなのか。
――赤があった。
ラルフには、脇から胸にかけて血が一向に止まらぬ深さの傷がある。ミカエラは右足を切り裂かれており、足の肉が一部、びろりと地面へ垂れ下がっている。唯一、エルドレッドだけが深手を負っていないが、それでも体中に無数の傷があり、迫る敵を退けるのに精一杯であった。
対して、エリスを始めとした敵の軍勢。魔蝿に侵された者モノ。その数は未だ三十程度残っており、エリスだったモノに至っては傷一つすらありはしない。
誰がどう見ても、彼ら三人は劣勢に立っていた。
――時は遡る。
「エリス……」
ラルフの口から情けない声が漏れる。向けられた相手は群像の中の一人――否、一体。それは希望に縋っての物か、自らの部下を醜悪な姿に貶めてしまった後悔か。どちらにせよ、名前の持ち主には届かない。
ただ、殺意と狂気を以てして応える。
人の身に巣食い、精神と尊厳を冒し尽くす魔蝿の子供達。五十にも届きそうな眼前の群れが一斉に動いた。寸前までの蠢きでは無い。明らかに目的を持っての行動――そして、向けられる殺意から目的も察せられる。偶然か、もしくはラルフの声に反応したのか。化け物達はラルフ達へ一斉に襲い来る。
「くっ……!」
躊躇いと苦悩を滲ませながら、ラルフは背負っていた大剣を手に取った。隣ではミカエラも剣を抜いている。二人の騎士が常より鈍い剣を構えるその後ろでは、エルドレッドもまた戦闘の準備に入っていた。両手十指に填まっている深紅の指輪。それらが炎の様な輝きを滲ませ、魔力の唸りを響かせる。世の理に割り込む準備を整える中、敵の集団が互いの間にあった空白を埋め終えた。
先に攻撃を繰り出したのは、ある意味当然ではあるがエルドレッドであった。素手よりも遠く、剣よりなお遠く、弓ですら比肩出来るか否か。魔術が如何に扱い辛くとも、超常の奇跡を生み出す技術であるならば、この場の誰よりも先に一撃を振るう事も不可能ではあるまい。
深紅の指輪が、一際強い輝きを放った。輝きは世界に幻影を焼き付け、その狭間より炎が出でる。炎は蛇めいた動きで、明らかな意思の下、迫る敵の群れを蹂躙した。地を這い、空を駆ける。辺りに満ちるは焼けた肉の匂いと、脂の不快感。それに人間の三人は顔を顰めるも、敵の群れは止まらない。同胞の犠牲に一切の逡巡すら無しに、化け物は騎士の二人に肉薄した。
迫るは、人外の膂力によって底上げされた拳。元が村人故に技術こそ拙くはあるが、それを補って余りある破壊力がその拳にはある。騎士の二人は精神の動揺を押し殺し、身に染み付いた反射で敵を切り伏せる――瞬間、ラルフとミカエラは背筋に奔る悪寒の訴えのままに、自らの身体を地面に投げ出した。
「ハァ!?」
背後で空気の悲鳴が聞こえる。受け身を取り、体勢を立て直したラルフが見たのは、大人の身長の何倍もの直刃の剣を振るうエリスだったモノの姿だった。ラルフの大剣を優に超える直剣は、狙いを外したと知るやその刀身を崩した。ぼろぼろと朽ち果てた木屑の様になって、剣は刀身の煌めきも鋭さも失う。残ったのは、短剣と呼ぶかどうかが悩ましい程度の中途半端な長さの剣。実直なまでに真っ直ぐに伸びた刃に、日の輝きを鈍く返す漆黒の刀身。何時の日かラルフも見た、エリスの「自己満足」がそこにはあった。
「シャーロットめ……面倒臭い武器を」
目の前の常識外の光景に、思わず愚痴を零す。
剣が伸びるなど、勿論の事ラルフは聞いていない。どころか、持ち主であるエリスすら知らなかった事である。だが事実、剣は伸びた。そこに魔蝿の子によって生じた人外の膂力が合わさり、人の身ではあり得ない剣術が完成する。
などと、ラルフは、そしてミカエラも楽観視していた。ラルフも、ミカエラも知っていたにも関わらずだ。魔蝿の恐ろしい所は、宿主の知識や技術を扱える事であると。エリスの特異な点であり、不明瞭な点の一つに、尋常ならざる戦闘技術があるのだと。
エリス擬きが消えた。
大勢に攻められていたとは言え、騎士二人はエリス擬きを視界に納め続けていた。それは未だ消えぬ動揺の為でもあったし、異常な剣の間合いを踏まえた戦術的観点からの警戒でもあった。だが、エリス擬きは消えた。二人の視界から人波によって自らが消える、ほんの僅かな瞬間。そこを寸分違わず物にし、完全な隠伏を成し遂げた。驚愕を殺し、騎士は油断なく周囲を警戒する。迫り来る有象無象をいなし殺しながら、隠れ潜むかつての仲間だったモノをを見つけんと目を凝らす。
――凶刃は意外にも、正面からラルフを襲った。
切り伏せた敵の腹から、剣が生える。同じく魔蝿の子を宿す同胞を貫き、その向こうに居るラルフ諸共串刺しにしようとする、容赦無い不意を突く奇襲。ラルフは振り終えた剣の向きを強引に変え、大剣の腹で奇襲を防ぐ。だが、それだけでは終わらない。防いだ剣先が途端に崩れる。「自己満足」が元の長さに戻り、貫いた肉の枷から解き放たれて自由を得る。同時、ラルフは下がった動きを反動に大剣を振り上げるが、エリス擬きまでは攻撃が届かない。躊躇いが剣先を鈍らせ、肉の壁を今度は盾にされた故に威力が殺され、地を舐める様な踏み込みを前に反撃は空を切った。大剣を振り上げ空振りした結果、ラルフは脇腹を不用意に晒してしまう。そこへ、エリスが必殺を携えて飛び込む――それこそを、ミカエラは待っていた。
ラルフにエリスは斬れない。そんな事は分かっている。だからこそ、自らにも動揺や躊躇があれど自分がエリスを殺すのだと、ミカエラは静かに決意していた。
隙を晒したラルフを殺さんと迫るエリス。そこへ、静かな一太刀を浴びせる。如何に化け物になった身とは言え、元は人間である。首を絶たれてしまえば生きてはいられまい。決意の斬撃はエリスの首目掛けて進み、
「なっ!?」
首や肩から生えた、黒い金属めいた何かに阻まれた。形は肋骨などの形状に近い。だが、湾曲した造りこそ同じものの守っているのは内臓では無く首である。首や左右の肩から何本も生え、首を囲むようにそれは伸びている。必殺を誓った刃は堅牢な守りに弾かれ、ミカエラも体勢、精神共に無防備な隙を晒してしまった。
そして、情けない騎士達に当然の報いが齎される。正対していたラルフは脇から胸元にかけてを斬り抜かれ、背に陣取っていたミカエラは、エリスの背中からまたも生えた無数の黒い何かに右足を裂かれた。苦鳴の声を上げながら騎士は下がる。傷口から、止め処なく赤い液体が溢れ出る。
騎士の二人は自らの身体に鞭打って、目の前の敵へ剣を向けた。けれど、その目には常の剣気が微塵も無かった。