幕間 無垢の色
夢なのだろう。
何も無い空間で、ただ意識だけが揺蕩う。身体は無い。色も無い。黒色と言われればそんな気がするし、白色と言われれば納得しそうな、そんな一面同色にして無色の空間。比較する物が無い以上、仮にこれが赤であれ青であれ何かの色に染まっていようと、この空間は相対的に無色であった。
無色の空間で少年は思う。考える脳も言葉を発する口も無いが、ただ思う。漠然と、茫然と、彼はここが自分の中だと感じていた。仮に自らの肉体――今は無いが――を分解したとする。皮を裂き、肉を掻き分け、内臓を引き摺り出し、骨を砕き、神経の細部まで解した果て。物質の先にまで分解が及ぶなら、幾億幾兆の部位の中にここがある筈だ。鏡を見る様に身近な、両手の様に見慣れた感覚がある。それでいて、居てはならない場所だという忌避感がある。
――不思議な場所だった。
どれだけの時間、こうして漂っていただろうか。
幾時間、幾日、幾月、幾年――幾星霜。一瞬でも、永遠でも、彼は誰かにそう断言されれば素直に頷いていただろう。何も無い時間は何も残らない。思考や記憶が出来ず、老化も経過も無いのだから、ここにあるのは色と同じ無の時間だけだった。
だが、それも終わる。
無色の空間に、異物が現れた。
皹か、それとも靄か。空間に現れたそれは、明確な黒の色をしていた。少年は思う。
――ああ、あれが黒か。気味悪く、その癖目を背けられない、忌避を抱くあの色が黒か。
黒は広がる。一瞬前よりも更に、更に。空間を黒に染め上げる。
黒が現れた事で、空間は無色では無くなった。それでも尚、黒ではない空白は無色のままだった。例えるなら空気に近い。灰を空に向けてばら撒けば、漂う灰色の風に空気の存在を見られるかもしれない。だが、それは本当に空気の存在を証明するのか。ただ、灰が空間に漂っているだけでは無いのか。空気を空気たらしめる全てを揃えているのか――きっと、全て揃える事など出来はしない。何故なら、その存在はもはや曖昧模糊な概念になっているからだ。空気の成分を詳らかに分析し、その全てをずらりと並べ立てたとしても、人はそれを空気と思えないだろう。そこにあるのは空気を構成する全ての部品に過ぎず、空気では決して無いからだ。
ここも同じだ。無色に黒が入り込んだ。黒は何かと引いては押してを繰り返しながら広がっている。黒に抗う相手こそ、無色なのだろう。でも、見えはしない。灰が空間に漂っているからと言ってそれだけで空気の証明にならない様に、無色の空間は存在が在るとだけ分かるものの、認識の領域に降りては来ない。
それでも、分かる事がある。脳が無くとも、口が無くとも目が無くとも。感情のままに分かったことがある。あれは敵だ。あれは侵略者だ。あれはここを侵し、犯すモノだ。――ならば、排除しなくてはならない。
少年に根源的な恐怖と、本能的な闘争心が宿る。
そして――新しい黒色が噴き出した。
黒と黒がぶつかる。溶けて、崩れて、解れて――混ざり合う。黒と黒は衝突を繰り返しながら、新たな黒へと変化していく。より恐ろしく、より悍ましく。ほかの全てを冒涜し、侵食する深淵の色。全てを無為に帰す異色が、無色だった空間を塗り潰す。
少年はただそれを、目無き目で眺める。こんな事は望んでいなかった。元の無色に戻して欲しかっただけだった。でも、もう手遅れ。少年が思ったから、無色の空間は新たな黒で見るも無残に汚された。
少年は何も出来ない。何を思っても、ここに自らの身体は無いのだから。
いつも通り、見る事しか出来ないのだから。