7 知らない恐さ
ベッドと机、そして椅子。他に何も置けないそんな狭さの部屋で、エリスは机に向かっていた。一冊の本を机の上で開き、ぼんやりと光る灯りを机の端に置いている。薄暗く狭い部屋。そんな部屋が、エリスにはこの上なく居心地が良い。
エリスが騎士見習いとして過ごす事が確定した後に発生した問題の一つに、エリスの居住地をどうするかというのがあった。騎士見習い故に宿舎に住まう事までは即決であったが、どの部屋に配属するかが難しかったのだ。結果としてはエリスが何故か気に入った、埃っぽい、狭い、日当たり悪しという三拍子の揃った今の部屋になった訳だが。
そう、エリスの部屋があるのは王国騎士団本部の敷地内にある、宿舎の一角である。一人部屋であるのも納得の狭さで、元々はちょっとした物置きとして使われていたらしい。もっとも、物置としてすら持て余した感のあった、使い勝手の悪い部屋だった様だが。
エリスにとっては、記憶喪失からやっとの事で手に入れた聖域である。
部屋の外は真っ暗だ。日中に響く騎士達の声も無く、夜の静寂は読書の環境として申し分無い。エリスはこれ幸いと日課の読書に没頭する。
エリスの読んでいる本はセシリア達から借りた物だ。内容は実にバラバラで、昨日までは「王国食い倒れ紀行」で、今日からは「今日の魔術のあゆみ」とバラエティに富んでいる。記憶を取り戻す取っ掛かりとして読んでいる以上、ジャンルに際限は設けていない。手当たり次第とも言える。
『日々の生活に欠かせない、これが無くては始まらない。そんな魔道具を革新的に生み出す組織に、誰もが「魔術協会」の名を挙げるだろう。彼らは日々、意欲的で熱意溢れる実験と開発の元、様々な魔道具を作り出している。本書を読んでいる諸君たちも現在進行形で使っているかもしれないが――ルシオルなどが良い例だろう。一見すると銀色の粉だが、水を数滴垂らすと明る過ぎない、柔らかみのある光を放つ魔道具だ。火とは異なって熱を持たない、火事や火傷にならない等、優れた長所を持ち、主婦から傭兵まで、幅広い層で使われている。粉が真っ黒になったら替え時だ。諸君もこれを機に、少しばかり視線を上げて確認して欲しい――』
本の勧めるままに、エリスは視線を上げた。
燭台から針を取り除いた様な物が机の脇に置かれている。エリスの視線が注がれる皿の中には黒い粉があった。粉から発せられる、ぼんやりとした光は最初ほどの強さが無くなっており、時折明滅を起こしている。放っておいても時機に消えそうだ。
――なるほど、確かに替え時らしい。
エリスは丁度良いと、今日はここで栞を挟む事にした。普段ならもう少し読み進める所だが、何せ初訓練を耐え抜いた後だ。身体は各所から休息の訴えを発し続けており、時一刻と睡眠への衝動が強まっているのを、エリスはひしひしと感じていた。
「よし、寝るか」
独り、宣言にも似た言葉を吐いて本をぱたんと閉じる。
肩を回し、背を伸ばし、軽いストレッチを行う。平時と異なる負荷があったからか、身体全体が軋む様な痛みを訴える。エリスの眉間に思わず皺が寄った。
「今日は疲れたなぁ」
もぞもぞとベッドに入りながら、誰にでも無くついついぼやいてしまう。ベッドに横たわれば、尚更身体からの訴えは強く感じられた。特に、ミーナの猛攻に晒された身体の正面たるや。
「寝よう寝よう。寝れば痛くない」
訴えを跳ね除けるべく、エリスはわざと寝返りを打って身体に布団を巻き付ける。目をぎゅっと瞑って、頭を空っぽに。気付けば夢の世界という寸法だ。
夢に落ちる刹那。エリスは昨日とも今日とも違う、明日からの日常を想った。