8 怖い笑顔とそれよりも怖い勘違い
目が覚めた。
緑――否、翠色の宝石が二つ、視界の中でこちらに向いていた。宝石は透き通る肌色の額縁に納められていて、その周りには端整な装飾が施されている。全てが魅惑的であり、魅力を凝縮した代物の集合体。その正体が一人の少女だと言うのだから驚きだ――寝ぼけた頭でエリスは鼻先の芸術品を堪能しつつ、本格的に覚醒し始めた理性は、目の前の存在がセシリアであると認識する。
「おはよう、エリス」
セシリアの口から零れた音は、人の熱を抱いたまま空間を滑り、エリスの耳に熱と言葉を届ける。甘美な温もりとその裏に見え隠れする暗い何かに、エリスの背筋に痺れが走った。
「お、おはよう、セシリア」
兎に角と。エリスはセシリアに目覚めの挨拶を返す。
目が覚めてから今に至るまで、セシリアはエリスから一度たりとも視線を外そうとしない。寧ろ、視線で穴を開けんばかりの勢いでエリスの顔を見つめている。おまけに、少女特有の血色の良い頬は幾分釣り上がり、可愛らしさと色気を併せ持つ唇は弛んだ糸の様に弧を描いていた。何故か、その笑顔を見ていると身体中の毛穴が開き、じっとりと嫌な汗が滲み出る。目の前の笑顔は一枚の絵みたいに綺麗なのに、エリスは被食者の気分を味わう羽目になっていた。
じっと、こちらを見るセシリア。
翠の双眸はエリスを映して逃がさず、その視線に晒されていると、監視されている様で気楽に身動ぎ一つ取れない――と言うか、現実に手足が紐か何かで縛られているらしく、逃亡は不可能なようだ。セシリアの熱視線を避けつつ首を巡らせた所、ここがセシリアに充てられた療養部屋であり、自分はセシリアのベッドの中に居るらしいと分かった。更に言えば、セシリアと一緒に彼女のベッドに寝ているのだと理解した。――理解とは言っても、エリスのその思考は半ば目の前の恐怖からの逃避に限り無く近い類だった。
「エリス?」
セシリアに呼ばれる。それだけの行為で、エリスの全身は枷に関係無く、一切の動きを忘れ去った。竦み上がった、とも言う。
「……エリスが部屋を出てから少ししてね、ミカエラに話があったから私も部屋を出たの」
セシリアが何やら記憶を語り始める。口調は幼い子供に言い聞かせるようにゆっくりと、優しい物なのに、エリスの目には死刑台までの階段が映っていた。
「ベッドから出て、扉を開けて、廊下に出るでしょ。それで、ミカエラの部屋はどっちだったけ、と左右を見たらね。とある人が倒れているのを見つけたの。誰だか分かる?」
「えーと、誰かなぁ?」
とぼけてみる。
死刑台までの距離が一段分近付いた。
「ヒント。その人は白い髪でした」
「ふーん。僕の髪も白いけど、とんだ偶然もあったものだね」
一気に二段分、一段飛ばしで死刑台が近付く。
「次のヒント。その人は腰に変わった剣を着けていました。木の柄が刃の部分を咥えているみたいな、変わった剣」
「へぇ、僕の自己満足以外にもそんな剣があるんだ。何だか、仲間を見つけたみたいで安心するね」
もはや何段飛ばしか。死刑台が目の前まで近付く。残っている階段は後、たったの一段だ。
「……最後のヒント。私はその人に、名前を付けてあげました」
「そ、そうなんだぁ……」
もはや、とぼける事さえ出来なかった。既に、階段は昇り終えている。死刑執行人は、笑みを静かに解くと、吹き荒れる嵐の様な怒りの形相で叫んだ。
「廊下でぶっ倒れてるってどういう事!? 倒れてるエリス見た瞬間、私の心臓がどれだけ凍りついたか分かる!? エリスだけじゃ無くて、私も倒れそうなくらいびっくりしたんだよ!? ねえ、分かる? 分かる!?」
「はい、はい……すみません」
「私言ったよね? エリスがベッドから出ようとした時言ったよね? 『本当に大丈夫』って、確認したよね!? それで? エリスは何て言ったんだっけ?」
「あ、はい。大丈夫と、言いまし――」
「そうだよね! 言ったよね、大丈夫って! ――ぜんっぜん! 大丈夫じゃないじゃん! 何、格好付けたつもり? 逆に格好悪いよ、バカ!」
「はい、はい。ごめんなさい……」
普段の彼女からは想像も出来ない声量と勢い、それに加えて至近距離という要素も合わさって、エリスはこの世から消えてしまいそうになる程身を縮めていた。手が動くなら耳を塞ぎたかったし、足が動くならベッドから這い出て逃げ出したかったが、生憎とエリスの手足は封じられている。仮に手足が自由だったとしても、今の体調でベッドから逃げ出せば先の二の舞だろう。
セシリアの心配と怒りはごもっともだし、それを分かっているからこそ、エリスはただひたすらにセシリアの怒号を一身に受け続けていた。抵抗は許されない。出来る筈も無いし、するつもりも無い。彼女の言い分は普段から間違っていない事が殆どだが、今回はいつにも増して正し過ぎる。要らない事をして母親に怒られ、ビクビク震える子供の様で情けない限りだが、実際似た様なものなのだから怒られるのも当然だ。
――ただし。ここでエリスと、そしてセシリアは考慮すべきだった。
療養部屋に割り当てられた部屋から聞こえる、叫びに似た声。それを聞き付けた人間もまた、セシリアがエリスを心配したのと同じく、何かあったのかと駆け付けても可笑しく無いのだと。
「如何なさいましたか、セシリア、様……」
バンッ、と勢い良く扉が開かれ、室内に廊下の空気が入り込んで来る。同時に、アウレニアの目にもまた、室内の風景が映り込んだ。
――つまり、息も交わる超至近距離で、互いの顔を覗き込むようにして一つのベッドに寝ている、仲睦まじくも桃色な少年少女の姿を。
白と黒に彩られたエプロンドレスの裾が、時間が流れているただ一つの証明とばかりに風に揺れる。対照的に、エリスとセシリア、そしてアウレニアの三人は、しばし瞬きも忘れて静止していた。
瞳が乾燥で割れそうになった頃合いで、アウレニアが動きを取り戻した。照れと余所余所しさに目を泳がせながら、ドアノブを掴んでいた彼女の手が、ゆっくりと開いた時の動線を逆向きになぞる。扉と廊下の隙間が本一冊程度になった所で、アウレニアは極めて申し訳無さそうに言った。
「……失礼致しました。ごゆっくりと、お楽しみください」
何が失礼だったのか。何をゆっくりと楽しむのか。そんな事を訊ねるよりも先に、扉はパタンと閉じられた。
「「ちょっと待ってーーーーー!!!」」
いつの日かを思い出す、既視感たっぷりな二重奏の絶叫が屋敷中に響く。
あの日と違ったのは、彼女が頑なにエリス達の言葉に耳を貸さずに二人の関係を誤認してしまった事と、あれ程騒動の最中ではエリス達に秘密の確約を誓っていた癖に、色恋沙汰に対しては随分と口が軽かった所為で、夕食の時には全員に湾曲した情報が知れ渡っていた事の二点だった。
致命的な、二点だった。