7 忘却の影
――過剰供給による身体への過負荷。今回の一件でエリスの身に起きた現象はこれだと、セシリアは断言した。
本来、魔術とは世界に満ち溢れている法則や摂理に小さな歪みを発生させ、その影響を連鎖させたり、時には抑止する事で任意の現象を呼び起こす技術の事である。魔術に必要とされる魔力とは、この小さな歪みを発生させる動力である。装置に例えるなら、世界という大きな装置に接続されている無数の小さな装置――その中にある歯車の一つに変化を与えるのが魔力、という事になる。つまり、魔術とは基本的に迂遠な技術であり、魔力を注ぎ込む先は極小の範囲なのだ。
では、過剰供給とは何か。先の例えを用いるなら、小さな歯車に大きな力を与えた状態の事である。歯車は小さい故に、繊細。それを強大な力で動かそうとすればどうなるか――当然、歯車は壊れてしまう。世界に影響を与えるどころか、歯車が壊れるだけに終わる。それが、過剰供給だ。
今回の場合では壊れた、否、壊れる寸前で止まった歯車とはエリス自身だ。エリスが行っていたのは、自己概念による身体強化。つまり、魔力の行き先がエリス自身に向いていた。身体という器に無制限に注ぎこまれる魔力は、エリスの身体を内側から破裂させる――そうならなかったのは偏にセシリアのお陰だ。
もっとも、恩人であるセシリア当人は頻りに首を傾げ、何やら考えている様なのだが。
「何を悩んでるの?」
見るに見かねて、エリスはセシリアに声をかける。
ちなみに。エリスは今、セシリアに宛がわれたベッドで横になっており、セシリアはベッドの脇に置かれた椅子に腰かけている。エリスの身体への負荷は馬鹿に出来ず、少し動こうものなら目眩を覚える始末で、それをセシリアに看破されて今に至ると言った顛末だ。
いつの間にか、立場が逆転していた。休むべき者に無理をさせた挙句、見舞っていた人間がベッドを使っているのだから、本末転倒と言うか何と言うか。謝罪を口にするつもりこそ無いが、それでも何処か申し訳無く思ってしまう。
「いや、ね。エリスに起きた異変は過剰供給で間違いないんだけど……。でも、そもそもに、何で過剰供給が起きたんだろうって」
「……? どういう意味?」
「過剰供給って言うのは、魔術師が構築した術理論が不完全で、思いもよらぬ方向に魔力が流れた時何かに起きるの。用意していた魔力が膨大で、予想外に向かった先の許容量が小さい時に、過剰供給は成立する。どちらかの要素が逆なら発生しないし、理論が完璧なら起きもしないって訳」
仮に魔力の行き先が予想外の方向になったとしても。魔力が少なければ、歯車に与える影響は些細な物だ。また、歯車が頑丈で大きければ、魔力を受けても壊れない事もあるだろう。つまり、セシリアは過剰供給は偶発的な事故であると、しかも条件が揃わないと起こり得ない事故だと言っているのだ。
では、エリスの場合はどうなのか。
「エリスの場合、魔力に対する許容量は……普通より多めみたい。今回の件でも大事に至らなかったのもそれが理由かな。じゃあ、魔力は? ……過剰供給が偶発的な事故なのは、一度に大量の魔力を送り込むから。だって、単発じゃ無くて断続的な連発だと二度目、三度目の時に気付いて止めるでしょ? しかも、今回の場合魔力の行き先は自分の身体何だから、嫌でも異常事態って分かる筈。でも、エリスはずっと魔力を変換し続けていた。自分の身体が過剰供給の過負荷に晒されていても、私が止めるまで魔力は流れ続けていた……それが、そこが分からないの。エリスが自分の意思でやってたんじゃないってのは分かる。分かるからこそ聞くけど、何か覚えてる事とか無いの?」
「ええっと……」
セシリアに問われ、エリスは記憶を探る。最中の、そして今の身体状況の所為か、記憶が随分とおぼろげだが、覚えている記憶同士を繋ぎ合せて形にしていく。
まず、エリスは自分の内面世界に自身の肉体と自己満足を創った。
次に、そこに魔力を流し込もうとした。ここで魔力が手元から離れた。その後は生命力が魔力に変換され続け、それに焦燥感を抱いた頃に――。
「木を見た。大きな木」
「木? 木って根があって、幹があって、枝があって、葉っぱがある木?」
「うん。でも、その木は枝に大地が出来てる位大きくて、色々な生物が住んでて。それで、それで……」
そこから先が思い出せない。
誰かに会った気がする。知っている様で知らない様な誰か。
でも、そこだけが記憶から完全に零れ落ちていて、幾ら思い出そうとしても抜け落ちた記憶は戻って来そうに無い。喉の奥に何か引っ掛かっている様な、そんな不快感がエリスの頭の中に満ちていく。
「駄目だ。これ以上は思い出せそうに無いや」
「まとめると、魔力が暴走して、どんどん魔力が勝手に作られて、木を見て、目が覚めたと」
「うん」
セシリアの言葉に、エリスは首肯する。
間違っていない。間違っていないのだが、やはり何か大事な物が抜けている気がして堪らない。先程とは逆に、今度はエリスが頻りに首を傾げる。それを見たセシリアは、エリスに優しい目を向けた。
「エリス、今は休もう。エリスの身体は過剰供給の負荷に加えて、生命力も激減してるんだから。まずは、一旦休もう」
エリスが悩んでいたのを、セシリアは不調故と見たのだろう。布団を掛け直し、慈愛の表情でエリスを安心させようと試みる。
だが、エリスはそんなセシリアの手を優しく外し、布団を押し退けベッドから出た。
「いや、もう大丈夫だよ。ベッドはセシリアが使って」
「……本当に大丈夫?」
「うん。まぁ、鍛錬は休むつもりだけど」
しばし、セシリアと視線がぶつかる。瞳の奥、疲労の色を覗き込むセシリアに、エリスは真っ直ぐな目を返す。しばらくして、セシリアの方から視線を外した。
「今日は疲れる様な事はしないで、ゆっくりする事。これ宿題ね」
「うん、分かった」
最後に念押しを背中に受けながら、エリスは部屋を後にした。
全然大丈夫じゃなかった。
部屋から出て十数歩歩いただけで、エリスは廊下の壁にもたれて崩れる様に座り込んでいた。視界は波打って歪み、手足は他人の物みたいに感覚が薄い。だが、こんな事はあの部屋を出る前から分かっていた。ベッドから出た直後、もっと言えば出る前から、まともに動ける体調では無いと重々承知していた。
それでもエリスがベッドから出たのは、セシリアに心配を掛けたくなかったから――という真実の大半を占める建前と、格好悪い所を見せたくないという安いプライドだった。詰まる所、男の子の意地である。それも部屋を出てすぐに力尽きる辺り、格好悪いと言うべきか、締まらないと言うべきか。意地を張るなら最後まで張り通せと、エリス自身自分に思うのだが、如何せん身体は完全にストライキ態勢に入ったらしく言う事を聞いてくれない。床にうつ伏せに倒れ込みそうだったのを、こうして座りこむ体勢にしたのが最後の抵抗だ。そして、その最後の抵抗が叶ってしまった今、この状態からエリスは動けなくなってしまった。
「……ぁ、だめだ。いしき、が……」
遂には繋ぎ止めていた精神も白旗を上げ、意識が薄れ始める。
深い眠りに落ちる予感の様な物が身体を駆け巡る。――眠りでは無く、気絶だが。そんな益体も無い事を考えながら、エリスは意識を失った。