6 木陰の憩い
――思い浮かべるのは、真っ暗で何も無い世界だ。その中に一つ、自分の肉体を創り上げる。詳細に、精巧に。傷の一つに至るまで、完璧な模型を暗闇に形成した。
今度は、出来上がったそれへ「路」を繋げる。見えない路を、意識の中で顕在させる。この道は、魔力の通り路だ。自分の内、奥底で静かに燃えている生命の源泉から、必要な分だけを汲み取り、変換して路に乗せる。
そして、路に乗った魔力へと、エリスは強く念じた。途端、真っ暗な世界に一筋の光が生まれる。眩い輝きが闇を晴らし――
「上手くいったね、おめでとう」
目を開けると、目の前には笑顔で拍手を送るセシリアが居た。それから、自分の身体に駆け巡る魔力の存在を遅れて感じ取る。全身の感覚が鋭敏になり、血液の流れまで分かる様だ。情報が多過ぎて少し気持ち悪いものの、それに勝る達成感がエリスの顔にも笑顔を齎した。
――自己概念を通じた、自身への強化魔術。成功は明らかだった。
結局、鏡の前での裸体ショーは一日中続き、エリスが脳裏に自分の身体を焼き付ける事に成功したのはどっぷりと日が暮れてからだった。
病人――とは少し違うだろうが、セシリアは健康体では無い。長時間付き合わせるのも悪いとエリスは考え、要点だけを聞いて自分用に充てられた客室の姿身を使って、夜遅くまで自分の裸体と睨めっこしていたのだった。そして、一夜明けて今日。その成果を今、セシリアの前で披露している。
昨晩は自分の身体が浮かんでは消え、浮かんでは消えという、一種の悪夢にうなされたエリスだったが、こうして成功すると昨夜の苦痛は煙の様に消えてしまうのだから、人間とは斯くも現金なものか。 ――忘れた事にしてしまいたいという本心には、エリスは薄々勘付きながらも気付いていない振りをしていた。
「じゃあ、『ステップつぅー』にいってみよー」
「武器を持っての自己強化だっけ?」
変人ながらにして王国が誇る名工、シャーロットが創り上げた短剣――自己満足。木製の柄から伸びる根が、刃の部分を抱え込んでいる様な奇妙な形状をしていて、持ち主の生命力を魔力に変換し、それを吸収する事で刃の欠損を自力で回復するという、見た目以上に奇妙な性質を持つ剣だ。
戦闘時のエリスの手にある愛剣であり、愛し子。これを持たずして、戦闘には臨めない。戦闘に用いる事を考えれば、自己満足を持った状態で成功して初めて、自己強化が実用足り得ると言えるだろう。
エリスは腰に手を伸ばし、愛剣を抜く。日の光を受けて、黒い刀身が輝いた。本体は影よりも暗い黒であるというのに、その反射たるや太陽にも劣らない。エリスはそんな愛し子を数瞬見つめると、視線を外した。
「よし、やってみる」
「あれ? もう大丈夫なの?」
セシリアは自己満足を指差して、問い掛ける。それに対し、エリスは無言の首肯で返した。
――我が子を思い浮かべるのに、時間など必要無い。
目を閉じる。
浮かぶは暗闇、その中に自分の肉体を創り上げる。先の流れをなぞるだけだからか、肉体の形成は随分と楽に成功した。次に、その手中に自己満足を描く。付き合いは短いが、繋がりの深さは他の誰にも負けない。自己満足はエリスの子供と同じだ。故に、その姿を形成するのに苦労など無い。
暗闇に、自己満足を持ったエリスが映る。そこへ路を繋げて、魔力を送り込む。身体の奥底から汲み取った生命の欠片が形を変えて、路に乗る。そして、意思に従って走り出して――魔力が暴走した。
路を外れ、暗闇の中を荒れ狂う。エリスの奥底に鎮座する生命の源泉からは、際限無く生命力が汲まれ続け、次から次へと魔力に変わっていく。次第に暗闇は魔力で満たされ、魔力同士でぶつかり始めた。行き場を失った魔力は互いに衝突と融合を繰り返しながら、世界を一色に染め上げていく。闇はとうに消え、エリスの肉体も自己満足も無く、あるのは輝きだけだ。
目も眩む輝き。全てを照らし尽くす輝きは、同時にエリスの視界から全てを覆い隠す。輝きは尚も強さを増し、暗闇だった世界から溢れようとする。ここはエリスの意識、その内面世界だ。ここから魔力が溢れ出るとどうなるのか。そもそも、生命の源泉が枯れ果てはしまいか。エリスは目の前の輝きに危機感を抱きながら、在りもしない身体を強張らせる。
――その時、確かに見た。
世界の崩壊を予感させる、一際強い輝きの波。その狭間に、エリスは見た。
大きな、視界に収まりきらない位の大きな木だ。枝葉は空を覆い、地を見下ろしている。木の枝には大地が在り、泉がある。その周りでは幾種もの生物が気ままに過ごしていた。
これは世界だ。世界の縮図だ。生物の営みが、歴史が、この大樹に集約しているのだ。エリスは大樹の雄大にして膨大な存在に圧倒される中、偶然にもそれを見つけた。
大樹が抱える大地の中でも小さな一つに、その人影は居た。そよ風に髪を揺らしながら、白い椅子に座って本を読む人間。男なのか、女なのか。その判別は出来なかったが、しかしその人間がした行為は認識出来た。
人影は、こちらを向くと手を振ったのだ。多分、笑顔でも浮かべているのだろう。そんな柔らかい雰囲気が、人影から発せられている。
エリスは人影に応えようとして――。
「大丈夫! エリス、エリス!」
突然世界が弾け、目の前にあったのはセシリアの泣きそうな顔だった。悲痛な面持ちで、両手から青い光を迸らせている。頭に霞みが掛かっていて、エリスにはどうにも状況が呑み込めなかったが、とりあえずセシリアを安心させようと口を開こうとした。
「――――」
声が出ない。
舌が動かず、喉が固まっている。口だけでは無い。全身余すところ無く、動く箇所が一つも無い。唯一、目だけはどうにか動かせた。エリスは視線を動かして、自分の意識が有る事をセシリアに伝えようと試みる。通じるかは半々の試みであったが、セシリアはエリスの視線の動きに気付き、エリスの意識が有る事を確認すると安堵の表情を浮かべた。それから気を引き締めて、
「エリス、身体は動く?」
「――――」
「……うん、やっぱり動かないんだよね。大丈夫、すぐに治すから」
言葉と視線のやり取りは、エリスとセシリアの間に最低限の意志伝達を為し得たらしい。エリスの現状を確認したセシリアは、口を閉じた。治療に専念しているのだろう。――セシリアの両手から出る青白い光を、エリスは何度も見た事がある。これはセシリアが治療の際に用いる癒しの光だ。エリス自身何度もお世話になっており、その効果は身を以て経験済みだ。詰まる所、エリスの身体は何らかの負傷を抱えているらしい――全身が動かないなんて異常が起きているのだから、当たり前と言えば当たり前だが。
視線しか動かせないエリスは、治療に没頭しているセシリアを見る位しかやる事が無い。こちらを見つめ、懸命に作業に当たる彼女の顔は、真剣そのものだ。見ていると、感謝の気持ちと、それを大きく上回る罪悪感が湧いて来る。
セシリアがこの部屋で安静にしているのは、そもそもに魔力の枯渇に依る物だった。彼女の日々の状態を見る分に、急に容態が変わる類で無いのは分かる。だが、彼女は見た目健康体で在りながら、ミーナ達や東部の騎士の治療に向かわなかった。人の怪我を見過ごせない、見過ごさないセシリアがである。つまり、見た目が健康で、今すぐ体調を崩す程で無くても、実の所は深刻という事に他ならない。その彼女が今、エリスに向かって使っているのは、他でも無い魔術だ。魔術は魔力――生命力を消費する。生命力は生きている限り湧き上がり、自然と回復するとは言え、何よりも直接生命に関わる代物だ。セシリアの治療とは文字通り、身を削っての献身なのだ。削る身が殆ど失くなって尚、彼女はその身を削り続けているのだ。
「――ぁ、あ、ああ。ん、んん。もう、大丈夫だよセシリア」
やっと喉が元の働きを取り戻し、遅れて全身に感覚が戻って来る。身体をゆっくりと動かしながら不備を探し、特に障害が残っていない事を確認する。その様子を見て、セシリアは安堵の溜息を吐いた。
「ごめん、魔術使わせて」
セシリアが口を開く前に、エリスは謝罪を告げる。平身低頭に伏して、セシリアに許しを乞う。否、その心持は許しを求める物では無い。ただ、罪悪感に潰されて思わず謝っただけだ。使わなくても良い筈の、本当なら他の人に使いたかった筈の魔力を、自分に使わせてしまった咎に耐え切れなかっただけだ。
頭を下げるエリスをセシリアはしばらく見ると、僅かに震える頭に手を置いた。びくりと、エリスの頭が床を向いたまま大きく跳ねる。
「エリス、違うの」
セシリアの言葉に、エリスは頭を上げようとして――置かれた手に抑えられた。仕方が無く、床を見たまま話を聞く。
「今回の件は私の責任だよ。エリスに教えたのも、見ていたのも私。止められなかった、把握しきれていなかった私が悪いの。だから、エリス。私が魔術を使った事なんか謝らなくて良い。寧ろ、私が謝るべきなの。……ごめんなさい、私の所為」
頭上から落ちて来るセシリアの声は余りにも暗かった。
身を削って、心を抉って、それでも足りないと魂を差し出す様な。そんな自傷に似た懺悔の色が滲んでいた。それは違うと、エリスは叫びたかった。だが、エリスは言い淀んだ。エリスが向く視界一杯の床の中に、高そうな絨毯が水滴に濡れるのが映ったからだ。
――セシリアが、泣いている。
その事実に、エリスの心は塗り潰された。
「――それは違う。休むべき相手を無理矢理付き合わせて、挙句の果てに自分の馬鹿でセシリアを苦しめて。……知らない事を知れて楽しかった。出来ない事が出来そうになって舞い上がった。……セシリアに褒められて、嬉しかった。そんな僕の自分勝手な感情に付き合ってくれたセシリアは悪くない――!」
頭を抑える手を掴み、逆にセシリアの身体を自分の方へと引き寄せる。顔と顔が当たりそうな距離で、エリスは感謝の言葉をぶつける。
――謝罪から入ったのが間違いだった。
他人を頼るとは、他人に後ろめたい気持ちを抱く事では無い。真摯な感謝を持つ事だ。相手がセシリアなら尚更だ。他人の傷を自分より痛がる彼女を相手にするからこそ、彼女には謝罪の名の痛みでは無く、感謝の喜びを伝えるべきなのだ。
「――ありがとう。そう、ありがとうだ。ごめんじゃなくて、ありがとうだ。セシリア、ありがとう。君のお陰で、僕はこうしていられる」
「ごめん、ごめんなさ――え?」
小さくぶつぶつと、呪詛の様に謝罪を続けていたセシリアの声が止む。そして生気が返ってきた彼女の顔に浮かんだのは、ぽかんと口を開ける間抜けな表情だった。先程までの顔とのギャップに、エリスは思わず小さく噴き出す。
勿論、間近に居るセシリアは気付き、エリスに非難の視線を向けた。
「エリスぅ?」
「はは、ごめんごめん」
「……もう知らない。今度倒れても何もしてあげない」
「えっ……セシリア? セシリアってば」
エリスの軽い謝罪に、セシリアはエリスから離れてそっぽを向いた。セシリアの視界の外では怒らせたかとうろたえるエリスの姿があり――セシリアは感謝の気持ちと共に小さく、気付かれない程度に笑った。
感謝をしているのは、エリスだけでは無かった。