34 理想への道
「これでトドメ。うむ、私の勝ちだな」
エリスの怯えていた死は、何時まで経っても訪れなかった。
恐る恐る閉じていた目を開け原因を求めると、ミカエラの剣に赤い液体が絡みついていた。状況から考えるに、この赤い液体がミカエラの剣を止めたらしい。ミカエラが剣を引くと、赤い液体は途端に形を崩し、地面へと散らばり沁み込んで行った。
「あれは私の血液だ。私は少しばかり魔術体質が入っていてな。自分の魔力が通った液体なら、自由に操作・使役出来るのだ。……どうやら貴方は本気の殺意にしか、その技を十全に振るえぬ様に見えたのでな。少しばかり、小細工を弄した。すまない」
魔術体質なる言葉は気になる所だったが、しかしミカエラの真意が理解出来た事で、エリスは安堵に身体を弛緩させた。身体的にか、精神的にか。どちらにせよ立っているのが限界になり、エリスはどさりと地面に座り込む。
「いや、良い訓練になった。久しぶりだな、ここまで気持ち良い位に打ち合えたのは。その年でその技、中々の物だ」
ミカエラからの賛辞に、エリスの心はまたも抉られる。自分の物でも無い、気持ち悪い力を褒められても誇れる訳が無い。色々と、疲れていたからだろうか。エリスは思わず、ミカエラに言い返した。
「誇れませんよ、こんな力」
「……エリス、貴方はその力が嫌なのか?」
ミカエラの問い掛け。それに対する答えはずっと前から決まっていた。
「嫌ですよ、嫌いですよ。こんな力、無ければ良かった」
何度、この力が無い世界を考えたか。
研鑽も修練も積まず、経験も知識も無しに、自分の意思とは関係無く振るわれる力。それはエリスに罪悪感と孤独感を植え付けた。
エリスが憧れる騎士達は皆、己に誇りを持っている。誇りは過去に裏打ちされた物であり、今まで積み上げて来た自信の現れだ。故に、彼らは強い自覚を持って力を振るう。では、エリスはどうか。エリスはただ、外界からの脅威に反応しているだけだ。しかも自分の意思に関係無く。葛藤や選択も無く、ただ反応する。そこに誇りがある筈が無い。
そんな自分を誇れる訳が無い。
もし仮に、エリスにこんな性質が無ければ。多大な力を失う代わりに、エリスは誰にも嘘偽りなく、等身大の自分で生きる事が出来ただろう。失う物があるのかもしれない。だが、エリスにして見れば、自分を偽らずに生きられる事の方がよっぽど輝いて見えるのだ。
自分として自分を生きられる事が、エリスには堪らなく羨ましいのだ。
――ああ、それならやはり。エリスが抱く憧れは嫉妬の裏返しなのだろう。
「……エリス、昔話をしてやろう。何、お伽噺では無い。私の話だ」
自身の高潔さから程遠い醜悪さに自己嫌悪していると、ミカエラはエリスの隣に座り、優しい声色でそう切り出した。
「自分で言うのも何だが、私は小さい頃から強かった。八歳の頃には私に当てられていた剣の師範は越えていたし、十二の頃には王国の剣技大会で成人の部で優勝した事もある。無論、私より上の人間は居たし、当時より今の方が強い。でもな、周囲から恐れられるには十分な強さだった」
ミカエラの語る幼少期。そこには一切の明るい要素は無い様に感じるのに、ミカエラは微笑を浮かべて話し続ける。それが妙に気になって、エリスは黙って話を聞いた。
「生まれつきの魔術体質、突出した剣才――周囲は私を剣の才女と呼び、持て囃す一方で、畏怖の眼でこちらを見ていた。向こうには自覚が無いのだろう。だがな、それでも向けられる方は分かる物だ。子供ながらに、『ああ、私は他の人とは違うんだ』と、そう思っていた」
そこで区切り、ミカエラは空を見上げた。遠い何かを思い出す様に青い空を、目を細めて見上げている。ミカエラが何を考えているのか。エリスには分からない。
「――七年前。私がまだ、『姫神』何て大それた名前で呼ばれていない頃。私は戦場に初めて立った。そして、私は思い知った。エリス、知っているか? 人はな、死ぬんだ。首を落とされれば、死ぬ。腹を裂かれれば、死ぬ。足を斬られても失血死。火に嬲られれば焼死。瓦礫に潰されれば圧死。私はその時初めて知ったよ。人は、死ぬのだと」
青空を見上げるミカエラの眼に何かが過ぎる。それが何かは、エリスには分からない。ただ、ミカエラの表情は、それを忘れたくても忘れられない、そして忘れるべきで無い物だと語っていた。
「初めての戦場は、人の死で一杯だった。私はそれが怖かった。自分の死が怖かったんじゃない。他人の死に加担した事が怖かった。事実、私は初陣で敵の部隊を二つ、滅ぼした。司令部や仲間はそれを大いに喜び、褒め称えてくれたが、私はそれを誇る事は出来なかった。人の死を喜ぶなど、あってはならないと思ったからだ。だから次の出撃の時、私は戦わなかった。否、戦えなかったと、言うべきか――その結果、私以外の皆が死んだ。その地域を任せられていた百十四人、皆が死んだ」
喉が干上がる。
淡々とミカエラは語り続けるが、エリスは話を遮ろうかと何度も悩んだ。ミカエラの一言一句は濃密な血の臭いが染み付いている。聞いている方も、話している方も辛い。それでもエリスが黙り続けたのは、そうまでしてミカエラが語る真意が知りたかったからだ。
ミカエラは続ける、彼女の後悔の過去を。
「その次の戦いで私は、今度は味方を殺させまいと必死になって敵を斬った。その結果、味方から死傷者は出なかった。代わりに、敵の大部隊は全員死んだ。生き残りは居ない。他ならぬ私が、隈なく確認した。私が斬った死体を一つずつ見て回った。そう一つずつだ。死体はな、もう人間じゃない。動かないし、喋らない。苦悶の顔のまま、腐って消えるだけだ。それからも、私は戦い続けた。見知った人間の死よりは、見知らぬ人間の死の方が楽だったからだ。何人も、何十人も、何百人も殺した。何時しか私の名は戦場で広がり、私の顔を見ただけで敵が逃げるようになった。その逃げる敵すら、追いかけて殺した」
ミカエラは静かに目を閉じた。その瞼の裏では、地獄が広がっているのだろうか。
「敵が敵であるからというだけで殺した。何時か味方を殺す、その可能性がある者は全て殺した。見える範囲、手に届く範囲は全て殺した。気付けば嬉しくも無い勲章が増えて、味方からは『鬼神』と呼ばれる様になった。ある時だ。司令部から知らせが入った。危機的状況に陥っている戦場の救援を頼む、と。私は言われるがままに戦場に向かい、あの男に出会った」
ふと、ミカエラの顔に笑みが戻る。何を思い出したのか、目の奥に燃えていた戦火も形を潜めた。
「屈強な男だった。高い背に、その背と同等以上の大剣を背負った、一人の男。その男の背後には、生きたまま捕えられた敵の姿があった。私は男に詰め寄って訊ねたよ。『そこに居る敵は、何故生きている』と。ふふ、怒鳴り付けた、と言っても良いかも知れん。それ程までに、私は動転していたのだ。男は言ったよ。『殺す必要が無いからだ』と。私は男に向かって剣を抜いた。敵は味方を殺す存在。それを見逃すこいつは、敵だと考えたからだ」
遠い過去を見る様な懐かしむ目で、しかし昨日を振り返る様な何気なさで、ミカエラはその男との過去を思い出している。ミカエラにとってその記憶は、何よりも代え難き宝物なのだろうと、エリスは感じ取っていた。
もしかしたら、自分にもそういった代え難き過去があったのかもしれない。
失われた自身の過去に思いを馳せながら、ミカエラの次の言葉を待つ。
「男は強かった。純粋な剣技なら私の方が優れていた。魔術体質の後押しもあったし、戦闘能力としては私の方が上だっただろう。だが、男は強かった。退かず、恐れず。ただ自分の想いを込めた男の剣は、私が今まで受けた剣の中で一番重かった。私と男の勝負は丸一日続いた。どう手を付ければ良いのか分からなかったのだろうな。味方は誰も手を出さなかった。そして、負けたのは私だった」
正直、信じられなかった。
つい先程剣を交わした身としては、ミカエラに負ける姿など到底想像出来ない。別に声に出していた訳では無かろうが、エリスの心情に気付いてか、ミカエラはエリスを見て小さく笑う。
「私自身、信じられなかった。だが、負けは負けだ。私は死を覚悟した。これでもう、敵を殺さずに済むと思うと、何だか気が楽になってな。私は笑って、男の一撃を待った。それに対して男はな――くっくっ、今思い出しても笑える。男はな、『気持ち悪』って言って私の頭を小突くと、帰り支度を始めたのだ。しばらくぽかんとしていたが、正気を取り戻した私は男に詰め寄った。疲れ果てた身体の何処に、こんな体力が残っていたんだと思えたが、男に吼えている間はそんな疲れとは無縁だった。――でな、男は言うのだ。『元気だな、俺はこんなヘトヘトなのに』と。その言い方が余りにイラついたから、私はその男の頭を殴った。すると、男も殴り返して来る。ここに至ると、周囲の者も呆れ返っていたらしく、気付けばそこに居たのは私達だけだった」
エリスの知る、そして周囲の語るミカエラ像からは想像出来ない、まるで、ムキになって喧嘩している子供同士の様な、そんな話だった。だが、そんならしくない話を語るミカエラの顔に、照れこそあれど恥は見えない。
「ずっと殴り返していたが、遂に本当の体力の限界が来てな。私達二人は地面に倒れた。二人横に並んで仰向けに倒れて、凄く心地良かった。この男に会えて良かったと、心から思えた。だから私は聞いたのだ。『敵を殺したくない、味方に死んで欲しくない。どうすればいいか』と。すると、男はしばらく考え込んでから、『お前に似せた人形を国境に置いたらどうだ? お前みたいな怖い女を見たら、皆逃げるだろうよ』なんて言うのだ。馬鹿にされたと思ってな。私は男を睨もうとして――男の笑顔に見惚れた。異性として魅力的だったとかでは無い。何と言うか、純粋な笑顔だったのだ。子供みたいな、可能性を何処までも信じる澄んだ笑顔だったのだ。だから私は、『それは良い』と言い返してやった。――私の大事な、始まりの一歩だ」
話はそこで終わりと、ミカエラは立ち上がった。土を払い、剣を持ち、エリスの方を振り返る。振り返ったミカエラに浮かんでいた、その笑顔を見て気付く。きっと、ミカエラの言う男が浮かべていた笑顔も、目の前の笑顔と同じだったのだろう。
「それ以来、私は敵も味方も殺さないで済む道を模索した。それが、停戦に役立つとかで誇張されて喧伝されたり、『鬼神』の異名が『姫神』になったりしたが、私には関係無い。私はただ、あの日の想いに殉じて生きて来ただけだ」
その笑顔は、エリスには眩しかった。でも、見ていたい笑顔であった。
「何か迷った時、道を見失いそうになった時。私はあの日を思い出す。如何に目的が大きかろうと、如何に壁が高かろうと。大事なのは初心だ。エリス、貴方にも始まりの一歩があるのではないか? 大事なのは始まりだ。始まりさえ忘れなければ、何時でも歩き出せるのだと、私は思うぞ」
その言葉を最後に、ミカエラは屋敷へと戻って行った。