表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エリスが居る場所  作者: 改革開花
二章 心の置き処
56/117

28 命への冒涜

 ――そこは果たして、今まで居た世界と本当に地続きなのか。

 床にぶちまける様に赤い線で描かれた、何かを意味するのであろう呪詛と幾何学模様。祀り立てられる様にして置かれた供物の数々。空間を薄く染め上げる蝋燭の山。そして何より――吐き気しか湧いて来ない、澱みに澱んだような負の塊みたいな空気。

 扉に魔窟と看板がぶら下げられていたなら、何ら違和感無く呑み込めそうな空間だった。

 部屋の中に入ったエリス達は、その空気に当てられて足を止めた。何かされた訳ではない。ただ、不快感と嫌悪感が究極までに高まると、人は何も出来なくなるのだと思い知った。


「おや、ようこそ。侍女さんに……若人達」


 空間の中心に居た、黒い外套に身を包んだ男がこちらを振り向く。その眼は眼窩から迫出そうになりながら、ぎょろりとエリス達を捉えた。途端、エリス達の全身に悪寒が駆け巡る。足の先から頭の先、果ては内側まで。全身を舐め回されている様な、そんな生々しい不快感があった。

 その不快感に耐え忍ぶ様に視線を逸らす中で――アウレニアは男の足元に転がる、敬愛なる主の姿を見た。


「――っ!」


 一瞬の内に不快感は消し飛び、内側から溢れ出すのは身を裂かんばかりの激情だ。主を取り戻す――それだけを胸に、激情は力となって弾け飛んだ。床を踏み抜き、怨敵に飛び掛かる。研ぎ澄ました一撃は男の喉を引き千切ろうと振るわれて、


ミカ(・・)エラ(・・)、守りなさい」


 男の短い言葉が割り込んだかと思うと、転がされていた肉体がバネ仕掛けの様に跳ね起きる。そして、主人(マスター)に迫る脅威を防ぐべく、凶手を横から掴み、壁の方へと勢いそのままに放り投げた。

 放り投げられたアウレニアは流石の反応で受け身を取り、すぐさま立ち上がると男の方を睨む。だが、そこまでだ。反撃も防御も、元より構えすら取れない。

 凛然とした立ち姿。誰よりも真っ直ぐな目。清らかでありながら、しかし弱さを感じないその姿に、誰もが憧れをその背に見た。


 いつの日かアウレニアが憧れ、愛した彼女がそこに居る――自分を敵視し、悪党を背に守って。


 その変わり果てた姿を見てしまっては、「ヴァレニウスの盾」は指一つすら動かせなくなった。


「ミカエラ、様」

「ええ、そうですとも。あなたが仕えるミカエラ様です。この通り、治療は滞りなく終わりました」


 そう言って、男はミカエラの腕を取った。ミカエラの腕は抵抗無く、男の赴くままに動かされる。そこに、ミカエラの意思は無かった。

 ――既に男の企みは成し遂げられたのだと、痛感する。

 手遅れだった。間に合わなかった。男の「治療」は既に終わり、ミカエラの肉体と精神は汚辱された。尊厳は二度と戻らず、彼女が帰って来る事も無い。アウレニアも、エリスも。ただ、目の前でミカエラの身体を人形が如く玩ぶ男を眺めるしか出来ないでいた。全てが終わってしまった今、目の前の光景はどうしようも無いのだから。





「エリス、アウレニア。今から一分で良い。時間を稼いで」


 ――完全なまでの敗北の光景を見て尚。セシリアは諦めなかった。

 扉の前で立ち止まっていたセシリアが、身体に纏わり付く瘴気を払いながら一歩踏み出した。その歩みに迷いは無く、その瞳に絶望は無い。まだ希望はあるのだと、セシリアの姿は雄弁に語っていた。

 希望があるならば、立ち止まってなど居られまい。

 エリスとアウレニアは自らの心を奮い立たせる。最後まで希望を捨てない様に、膝を付かない様に。


「おやおや、どうやら私は悪人とされているらしい。とんだ見当外れですが……降り掛かる火の粉を払うのは、当然ですよねェ?」


 にたりと、男は嗤った。唾液が糸を引き、粘着質な音を立てた笑いだった。先程までなら、その不快な音は睡魔にも似た親しさで心に這入り込まれ、瞬く間に囚われていただろう。だが、戦う覚悟を真に決めた二人(・・)には、誘いの音も効きはしない。

 

 アウレニアが床を蹴る。先と同じ様に、一直線に飛び掛かる。だが、今度は相手が違った。彼女が振り上げた手を勢い良く落としたのは、他ならぬ彼女の主にであった。その動きに躊躇いは無い。

 ミカエラの外面では無く、内の物こそを求める。

 そう明確に刻み付けたアウレニアに、先程までの迷いは一切無かった。


 同時に、エリスも駆け出した。自身がまだ脅威に晒されていない現状、あの性質(・・)は期待するだけ無駄であり、 故に、駆け出したエリスの速度は平凡な物。鍛えているとは言え、ただの少年相当の脚力であり、その速度はアウレニアの比にもならない。それでも駆け出したのはセシリアの言葉があったからだ。セシリアはアウレニアだけでなく、エリスにも時間稼ぎを頼んだ。単に頼る相手が居なかったからかも知れない。でも、それでも良いと思った。大事なのはセシリアに頼られた事であり、今エリスが為すべき事がここにあるという事実だけなのだから。

 数瞬遅れて、ミカエラとの距離を詰める。眼前ではミカエラとアウレニアが高速の打撃戦を繰り広げていた。手が足が、縦横無尽に爆ぜ回る。小さな嵐の体現とでも称すべき、殴打の密集地帯。そこに、エリスは迷い無く踏み込む。手に持つ愛し子(自己満足)を一層強く握り、細かい狙いも付けずに、ただミカエラへと振り上げた。

 無論、難なく弾かれる。そして襲い来るのは返礼の拳――それこそがエリスの狙いだった。迫り来る致命の一撃。大の大人を一人、壁に投げ飛ばす程の膂力を持つ人間が、武の理を上乗せして放つ突き。ただで喰らえば一溜まりも無く、防御は困難、回避は不可能の域だ。つまり、エリスがエリスである限り、この攻撃は命中する。

 なら、エリスで無くなれば良い。


「――っ」


 物言わぬ傀儡であったミカエラが、息を呑む音が聞こえた、気がした。実際にそうであったかは分からないが、しかしミカエラの突きをエリスが綺麗に躱した事に、少なからず誤算があったのは確かだろう。

 エリスの性質は目論見通り、迫り来る脅威に反応して見せた。意識は肉体から離れ、全身がただ脅威からの防衛として最適な行動を取る。全身の筋肉が躍動し、神経伝達が鋭敏に済まされる。そうして訪れたのが、本来なら不可能な筈の回避だった。

 誤算は感情無き傀儡にらしくない隙を生み、その隙を逃さずアウレニアの蹴りが放たれる。ミカエラは、突きを放った腕とは逆の腕を咄嗟に蹴りとの間に挟み込むも、その体勢は既に死に体。ただ技も無く挟まれた腕はアウレニアの蹴りに圧し潰され、ミカエラ自身も衝撃を吸収しきれずに吹き飛ぶ。そこから受け身を取り、着地を決めたのは見事の一言だが、防御に使った腕は蛇腹に折れ曲がっていた。あれでは二度と、まともに動かないだろう――そう思った次の瞬間。ミカエラの腕が暴れる様に蠢き、べきべきと音を立てながら元あった形へと戻っていった。

 エリスが記憶に持つ中でこの光景に最も近いのは、人狼病感染者の自然治癒だろうが、どこかそれとは雰囲気が違っていた。人狼病感染者の治癒は、自然な回復を物の数秒に圧縮した様な気味の悪さだ。だが、先のミカエラは回復というよりは修復とでも言うべきものだった。腕を無理矢理形成し、元の形に戻す――そんな雰囲気があった。現に、腕はある程度元の形に近くはなっているものの、負傷は僅かたりとも治っていない。飽くまで、形を近付けただけだ。人の感覚の最たる物の一つである痛覚は、欠片程も残っていないらしい。

 再認識する。ミカエラの人としての尊厳は、これ以上無く踏み躙られている。


「おや酷い。主に対して何たる仕打ちでしょうか」


 戦闘を傍観していた男が、神経を逆撫でする声で何やら言って来る。男はエリス達の行動を「無駄」と捉えているらしく、いつの間にやら引き寄せた椅子に座り、足を組んでこちらを見ていた。

 姫神ミカエラ。その武勲の数々を思えば、如何に「ヴァレニウスの盾」と称されるアウレニアでさえ勝ち目が無い。ましてや、彼女に助力しているのは高が子供二人。勝敗の天秤は僅かたりとも傾きはしないだろう。

 それはエリスにしてみても理解している。冷静に、第三者から状況を又聞きしただけなら、自分達に勝ち目を見出すのは無理だろう。だが、男は一つ勘違いをしている。エリス達は飽くまで時間稼ぎ――彼らの本命はセシリアにこそあるのだ。


「場を限定し、要素を確定させ、因子を固定する。ここは私の庭。知らぬ事は無い、出来ぬ事は無い。あるのはただ、無限の結果だけ」


 戦闘から男とは別方向に離れていたセシリアが、言葉を紡ぐ。それを聞いて、エリスは自分の役目を果たし終えたと安堵した。後はセシリアが何とかしてくれる、とは少し無責任だが、確信に似た信頼がある。


「私は、箱庭を統べる者」


 最後の一小節が紡がれ、セシリアの身体から七色の光が迸り――世界が変貌した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ