26 はにーとらっぷ
その屋敷は屋敷のある場所から幾らか下りた麓にある小さな町の、平々凡々な庶民達の家屋を全て集めて尚勝る程の雄大さを誇っていた。白を基調に、尖形の青い屋根を乗せたその屋敷は品位と歴史が同居しており、これから敷地に入る者に端然とした態度を強いる様な圧迫感すら覚えさせる。それもその筈、長くこの地の管理者として君臨してきたヴァレニウス家――その屋敷となれば品位も歴史も当然あるというものだ。
そのヴァレニウス邸は今宵、ここ数日の間で最も人の気配で溢れている。
賑やかだとか、騒がしいとかでは無い。音自体は殆ど無し。ただ、無感情に警戒に当たっている人間が蠢いているというのが正しい。巡回に当たっているのは王国東部防衛騎士団――ミカエラを仰ぐ者達である。セルディールに置かれていた人数より気持ち少ないが、しかし今回の騒動を起こした親ミカエラ――反エルヴェ――の騎士全体の三割近くがこの敷地内の警備に臨んでいた。
セルディールは小さいとは言え一つの町、一方ヴァレニウス邸は大きいとは言えただの屋敷。その面積は無論セルディールの方が広く、更には要所防衛である事から、実質的な守りの固さはセルディールを遥かに上回っていると見るべきだろう。
この守りの固さは、即ち守る対象の重要度を物語る。今、ヴァレニウス邸の中では『王宮医術師』による治療が大詰めを迎えようとしていた。滞りなく治療が進めば、明日の日が昇る頃には全てが終わる。
――ミカエラ・ヴァレニウスが帰って来る。
恋い焦がれた少女が見る夢の様な希望を胸に、警備に当たる騎士達は今の心を鉄と為していた。
そんな中、溶け切った鉄よりも軟い心で警備に当たっていた騎士が居た。男が立っているのはヴァレニウス邸の裏門の一つだ。門の柱に背を預けて、覇気の無い目で空を仰いだ彼は、数多の星へと溜息を吐いた。
親から長男として変に期待を掛けられるのが嫌だったから、騎士へ志願して故郷から逃げ出した根性無し――それがこの男であった。故に男は騎士団にこそ入っているものの、その心構えたるや軟弱その物。上司への最低限の分別はあるが、しかしそれ以上の感情は抱いていない。彼にとってミカエラは飽くまで自分より上の立場の者に過ぎず、彼女自身に対して特に思う所など無いのだ。
――男はミカエラ・ヴァレニウスを特別尊敬している訳では無いのだ。
それでも男が今回の騒動――クーデターとすら言ってしまって良い事態に置いて、形式上の指示系統の頂点である副団長のエルヴェに付かず、親ミカエラ側に着いたかと言えば、それは偏にそちらの方が力がある様に見えたからである。男の持つ判断基準の一つとして、ただ力の強い方に付くという物がある――それはミカエラが倒れる前から変わらない。彼にとって、上司とは力があるからこそ従うのであって、力の無い上司ならば従う道理は無いのだ。
「はぁ……。ミカエラ団長が帰ってくれば、またあの堅っ苦しい生活か」
ミカエラを尊敬して従っていない以上、彼は他の騎士とは異なりミカエラに対して多少の反感を抱いている。それは人並の物だし、例えばエディがミカエラに抱く程度の苦手意識に似たものである。
男の不満は、ミカエラが騎士に敷く厳格な決まりにあった。騎士然とする事を――本人の自覚は兎に角――半ば強いる彼女の在り方は、彼女に心酔していない彼にとってみればそこそこに苦痛なのだ。
「……また女日照りの毎日か」
これからの枯れ果てた騎士生活を星空に見る。疲れた顔でミカエラに叱られる男の姿が、淡い像となって映っていた。
そうして見たくも無い未来予想から目を逸らし、見上げた視線を地に戻すと、遠くに動く影が見えた。影は次第に大きくなり、細かい所も明らかになる。程無くして、近付いて来るのが馬車であると認識した。
ゆっくりと、腰に差した剣に手を持って行く。やる気が無いとは言え、役目は役目だ。裏門の警備を任せられている以上、不審者を警戒するのは当然。男は警戒を心に念じながら、一歩踏み出して門の柱から背を離した。
「何者だ」
低く、近付いて来る馬車に問いかける。返答は無い。
「――何者だ」
もう一度問いかける。これが最後。返事が無ければ制圧、場合によっては殺す事も考えながら、男はもう一歩踏み出す。剣を握る手に力が入る。
「……アウレニア。アウレニア・ライツでございます」
剣が抜かれる事は無かった。御者台から聞こえる落ち着いた声を、男はその名と共に聞いた事があった。確かヴァレニウス家の侍女――男の好みどストライクの可憐で凛とした女だった筈だ。
男は無意識に唇を舐めた。
「ああ、侍女さんか。こんな夜更けまでお出かけだったのかい?」
剣から手を離し、男は両手を広げて馬車に近寄る。わざとらしい位に明るい笑みを浮かべ、気さくな雰囲気を背に浮かべていた。
「ええ、買い出しに出かけていたのですが、少々帰りが遅くなってしまったのです。その、男の人に迫られたりしまして……」
思い出しでもしたのか、女は瞳を僅かに潤ませた。
ここだと、男は内心ほくそ笑む。
「それは大変だ! さぞ、怖かっただろう」
心配の言葉を盾に、男は御者台へと半身を乗り込ませる。一人のみが座る事を想定している御者台――その空間は余りに手狭で、故に女と男の距離は身体が触れる程に近くなる。
「でも、心配無いよ。ここにはそんな男はいないし……仮に居ても、僕が守ってあげよう」
言葉と共に、女の肩を抱く。びくりと身体を震わす初心な反応に男は気を良くし、一層身体を近づけていく。いつの間にか、二人の顔は息が届く距離にまでになっていた。
「騎士様……いけませんわ」
「ふふ、大丈夫。それでもまだ怖いなら、僕がその恐怖を拭ってあげよう」
ゆっくりと唇と唇の間が埋められていく。礼儀に従って目を閉じながら、男はすぐに触れる侍女の唇の感触への期待に胸を躍らせ――女の瞳に、鬼の形相を浮かべる独眼の男を見た。
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馬車の隅で息を潜めていた所為か、身体が少し強張っているのをエリスは周囲に気を配りながら解していた。エリスの周りでも、同様の行動をミーナ達も取っている。
エリス達は今、ヴァレニウス邸の一角にある厩舎の中に居る。「裏門の一つを見張っている騎士なら、不意を突けるやもしれません」というアウレニアの言葉により、三門芝居にもならない寸劇の後に、男をエディが気絶させ、ここに至る。
中に入ってしまえば怪しまれる道理も無し。そうなれば当然、馬車が厩舎に行くのも自然である。厩舎内にまさか侵入者が居るなど露も思っていないのだろう、ここにまでは監視の目も無い。即ち、エリス達にとっては、堅牢な守りに固められたヴァレニウス邸への侵入に成功し、内側から奇襲する機会を手に入れた事になる。今、馬車を出てエリス達が行っている柔軟体操も奇襲を十全に行う為だ。僅かな欠片でも不安要素は残すべきではない。これより挑むは敵地も敵地。セルディールの時の様に各地に敵が散在している訳では無い。全ての敵は内側に向く上に、目的が内部にある以上逃げる事も出来ないのだ。
故に、最初の一手で全てが決まる。
奇襲の混乱に乗じてどれだけ敵戦力を削げるか、目的を達成できるか。全てはそこに掛かっている。
「最後に確認するよ。セシリア、エリス、アウレニアの三人はミカエラの部屋へ。他は撹乱組。まず、セシリアに厩舎から大きくて派手な魔術を適当な場所にぶち込んで貰う。その隙に私達は屋敷内に入り、ミカエラの部屋を目指す。ミカエラの部屋に着いたら、セシリア達は中へ。私達は来た道を逆走する形でミカエラの部屋に駆けつけて来る騎士達を倒す」
全員への最後の確認を、ミカエラは潜めた声で言う。それに対し、各々が何も言うでも無く、ただ己が武器を抜く事で答えと示した。
「作戦開始」
ミーナの短い号令と共に、厩舎から離れた場所から爆発音が轟いた。