22 誰かの声
三つの影が路地裏から飛び出した。
影は一直線に厩舎の方へ駆ける。厩舎の見張りに立っていた騎士達は、突然の襲撃者に迎撃の構えを取り損ねる。そこへ、
「ハァーッ!」
気合と共に影の一人が長太刀を振るった。
影の正体はミーナ。遅れて、その後ろからエディとイライアスが追撃に加わる。三者合撃の妙に、その威力を受けてしまった騎士が一人、ボロきれの様な憐れさで吹き飛ぶ。地面を跳ね、壁にぶつかってそのまま静かになった。
勢いそのままに、ミーナ達は騎士達に攻撃を続ける。とは言え、東部の騎士も黙ってはいない。ミーナ達に初手の不意を突かれたものの、既に動揺から立ち直り、迎撃の構えを取った東部の騎士達の防御は堅牢だ。数の利は東部の方にあり、奇襲の動揺から立ち直られた今、ミーナ達は東部に退路を断たれ取り囲まれた形となっている。
四方に活路無し。それでも活路を見出すなら、己が手にある刃に賭けるしかない。
「上等――! 東部の騎士共の力量、見せて貰う!」
不敵に笑って、ミーナは包囲の一角に突撃した。
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ミーナと厩舎の外に番兵が如く守っていた騎士達の衝突を、エリスとセシリア、そしてアウレニアの三人は少し離れた別の路地裏から見ていた。視線の先ではミーナ達三人が東部の騎士相手に大立ち回り。数の利を同士討ちの危険として逆手に取り、翻弄と随所の鋭い一撃で東部の騎士を一人、また一人と打ち倒している。
遠からずあの戦いは収束し、最後に立っているのはミーナ達であろう――そう思わせる程、目の前の光景はミーナ達の圧倒であった。だが、それではミーナ達が少なからず疲弊してしまうし、無為な時間を取られてしまう。そこで、エリス達別働隊の出番だ。
ミーナの作戦は至極単純だった。
ミーナ・エディ・イライアスの三人が厩舎に襲撃を仕掛け、見張りの騎士の気を引く。その間にエリス達は厩舎内に潜入し、馬車を奪還。その後、強行する形で離脱。ヴァレニウス邸へ――と言った筋書きである。
この作戦の肝は二つある。
一つ目に陽動をこなし切る事。騎士達に包囲された後、負けましたでは話にならない。それを上回る戦力が必要となる――もっとも、この危惧はエリスだけのものだった様で、あの圧倒ぶりを見る限り杞憂だったと分かる。
二つ目に馬車を必ず奪還する事。潜入組が騎士に見つかり、捕まっては先の例よりも更に話にならない。この場合は、人質を取られた陽動組すらも危険に晒す事になる。
エリス達は潜入組――その役割は決して軽く無い。
「……行きましょう」
エリスは後ろに控える二人に声を掛ける。
ミーナの判断で、潜入組の指示役はエリスになった。曰く、「セシリアとアウレニアは油断して失敗しそうだから」という、詰まる所エリスはビビりだからぴったりだと言われた形だ。
少し、ほんの少し傷付いた。
「りょーかい」
「了解です」
二人の反応を聞き、エリスは慎重に歩を進める。躊躇う悠長な時間は無い。幾ら圧倒的とは言え、それでも陽動組が数で劣っているのは事実。いつ、そのバランスが崩れ、陽動組が窮地に立たされるかも分からないのだ。潜入組のするべき事は、見つからない事と、素早く終わらせる事。この二つである。
厩舎の裏に回り込む。見張りは全て正面――陽動組が戦う場に誘われた様で、裏には一人も騎士は居なかった。これ幸いと思う前に辺りを再度見渡し、確かな安全を確認した後に小さく安堵の息を吐く。
「入るよ……先に僕が、続いてセシリア、アウレニアさんの順番で」
裏口の戸に手を掛け、そのまま耳を戸に当てて中の音を探る。室内からは馬の嘶き以外聞こえない。エリスは手に力を込め、静かに戸を開き、空いた隙間に身体を潜らせる。
「――誰だ!」
――見つかった。
エリス達の目当てとする王都防衛騎士団の馬と馬車の前に一人だけ、東部の騎士が残っていた。そこまで無人にする程愚かでも無かったらしく、その賢明さがエリスを切迫した状況に立たせる。
――思考を加速させろ。
騎士とエリスの間にある距離は走れば一秒も掛からず埋められる程度。つまり、間合いの外ではあるが、その距離は極めて近い。セシリア達は未だエリスの後方。後に入って来る手筈であったばかりに、彼女達の行動はエリスのから更に一拍遅れるのは明白だ。彼女達の助力は期待すべきでは無い。
一手、この一手だ。回避、攻撃、防御、逃走、はたまた奇策――次に打つ一手を誤れば、たちまちこの状況は死地に変わる。
白熱した思考に脳が焼ける。
何が正解か、何が間違いか。全てが遅緩の場となっているエリスの視界。この世界が元に戻る前に正解を見つけなくてはならない。思考の加速にも限界はある。もう、そう長く考えてはいられない。
本能と理性を総動員させ、最適な解をひたすらに模索する。
考えて、考えて、考えて――。
「エリス君、突っ込んじゃいな。大丈夫、上手くいくから」
エリスは誰かの声を聞いた。
セシリアでも、アウレニアでも無い、女性の声。幼い様でありながら老成した様な、落ち着きのある弾んだ声――矛盾を内包しているにも関わらず、エリスの心を不思議と安心させる声を聞いた。
その声は本当にあったのか。
エリスが緊迫に耐え切れず生んだ虚構の声かもしれない。はたまた、単純に後ろの二人が言ったのを、ただ聞き誤ったのかもしれない。それでも、エリスはその声を信じた。何故かは本人であるエリスも分からない。
――その声は知らなくても、その心は知っている気がしたのだ。
「うぉおおおおお!」
咆哮を上げながら「自己満足」を抜いて、エリスは騎士との距離を詰める。騎士も同じく剣を抜き、彼もエリスへと踏み込んで来た。二人の間にあった空白が瞬く間に埋まる。
――先に間合いに入ったのは騎士の方だった。得物の長さと、それ以上に能力の差で生まれた間合いの差。その差は平時なら僅かだが、戦いの場においては果てしない遠さだ。
騎士の剣がエリスに迫る。刃の進む先はエリスの胴。横薙ぎに断ち切るつもりらしい。その道筋に「自己満足」を挟めるか――不可能だ。駆け出した足は勢いを殺すには強過ぎる。無理に斬撃に「自己満足」を挟んでも体の死んだ防御では威力は殺せまい。風切り音が、無情にもそれを伝えてくれる。
そう、このまま相手の剣を許せばエリスは死ぬ。横薙ぎの一撃はエリスの皮を裂き、肉を斬り、筋を断ち、内臓を捌いて――それで終わりだ。生まれるのは人の身体が上下に分かれた、急ごしらえの独創的な芸術だけ。遅れて入って来たセシリアとアウレニアがそれを発見して、それからどうなるか。怒りに狂うか、涙するか。セシリアはどっちもしてくれそうだが、アウレニアは淡々と敵の騎士だけを排除しそうだ。
「あぁ、でも。セシリアが悲しむのは嫌だな」
「そうか、そうか。じゃあ負けられないね」
心の声に返事が返って来る。また、あの声だ。その声が身体を巡り、頭の先から足の先まで声を聞いた時――エリスの身体は限界を超えて加速した。
身体の支配権は手中に無い。意識が身体を離れ、身体が勝手に動く現象。
この感覚をエリスは知っている。良く、知っている。
エリスが悩み、抱える業の一つ。セシリアと悩みを共有しても、共感は出来ない自らの性質。それが今、眼前の騎士相手に発動した。
致死の刃――だった物が迫る。更なる加速は埋めようの無かった距離を埋め、エリスの間合いへと身体を運んだ。
全身の筋肉が躍動する。踏み込んだ勢いは殺さず、寧ろ更なる加速すら生み出しながら、渾身の刺突を繰り出した。後に出したにも関わらず、エリスの攻撃は騎士の斬撃を優に追い越す。そうして行き着く先は相手の喉だ。余計な行程を省き、無駄な手間を除いた簡素な殺し。エリスの身体は合理的に、且つ最短で殺害の結果を得んとする――しかし、そこにエリスの意思は無い。
エリスの心に、凍てついた風が吹き込んだ。
こんな性質を持っている自分が、綺麗な手な筈が無いと、エリスは重々承知している。喪われている記憶の中には、きっと人を殺めた事もあり、その数も想像より遥かに多いのだろう。
だが、それはエリスであってエリスで無い。
過去の咎を知らない振りなどするつもりは毛頭無いが、しかし「エリス」にとって人殺しが未体験な行いである事は揺るがない。
――プレボスの一件で人狼病感染者を殺した事はある。
あれは確かに人を殺したと言っても間違いでは無く、エリス自身そう思うべきだと背負い込んでいる。だが、あれには正当性があった。必要性があった。
人狼病感染者は如何に人の形をしていようと魔獣であり、取り返しのつかない存在だ――その一面がエリスの心を支えているのもまた、間違い無いのだ。
翻って、今行おうとしている殺しはどうだ。この人殺しに正当性は、必要性はあるのか。そんな事は分からない。ただ言える事は、今度の人殺しは完全なまでに人を殺すのだという事だ。
その業に、エリスは耐えられるのか。
その咎を、セシリアは許してくれるのか。
否。エリスは恐らく耐えられない。脆弱な決意と、臆病な信頼しか持ち得ないエリスには、純粋な「人殺し」は耐えられない。
――互いの刃が進む。
騎士の剣は横薙ぎに断ち切り、エリスの剣は騎士の喉を突き穿つ。仮に騎士が剣を止めようとも、エリスの意識は身体の中に無い。身体の外にあるエリスには、次の瞬間に起きる死の光景を諦めて見届けるしか無い――
「だーかーらー。大丈夫だって言ってるでしょうに」
途端、エリスの意識が身体に戻った。身体の最適化は崩れ、加速は殺され、決殺の刺突は鈍る。それでもエリスの攻撃は騎士を捉える寸前まで迫っており、勢いが完全に無くならなかった刺突は、騎士を巻き込んで倒れ込む、一種の押し倒しへと変化を遂げた。騎士の攻撃はその押し倒しに潰れ、二人の一撃は不発に終わる。
一手の間が終わり、次の一手に繋がる。
遅れて入って来たアウレニアが、地面を爆ぜる勢いで蹴り抜き、瞬きすら許さぬ一瞬でエリスの下に辿り着くと、倒れ込むエリスを押し退けて、その下に居た騎士を取り抑えた。力を絶妙に殺している様で、騎士は身動ぎ一つ取れていない。
「今の内に、馬車の用意を」
「は、はい」
いつの間にか指示役が入れ替わっていたが、そんな事にすら気付かずに、エリスは言われるがままに馬を出し、馬車に繋ぐ。馬車への装着時に馬が元気に嘶き、自分は準備万端だと言葉の壁を越えて語りかけて来る。結構な事だ、ヴァレニウス邸への道程に掛かる時間は彼次第なのだから、運び手にやる気があって重畳だ。
「う、うぅ、ぁ……」
エリスが御者台に乗り込む間に、いつの間にやら、騎士は白目を剥いて気絶していた。アウレニアがやった事は間違い無いだろうが、どうやったかは見ていないので分からない。ただ一つ言える事は、あんなにも苦しんだ戦いが、呆気無く終わらされるのは何とも言い難い気分であったという事だけだ。
噛ませ犬、という言葉が脳内で元気に踊っている。
「乗りました、もう出して大丈夫です」
「セシリアは?」
「乗ってるよー」
後方、荷台からの声に頷き、エリスは馬に命を出した。
馬は一層大きく嘶き命に応え、蹄の音高らかに駆け出す。エリス達を乗せた馬車が、厩舎の内から矢が如く飛び出した。厩舎の外、未だ陽動に勤しむ彼、彼女の下へ。