4 エリス
「ちょっといいー?」
重く、それでいて苦しくは無い、緊張こそあれど嫌な感じはしない空気は、少女の陽気な声によって霧散した。ラルフと少年は声の主の方を見やる。
声の主、セシリアは一冊の本を持っている。先程からえらく読み込んでいた本であり、背表紙には「王都住民録」なる文字が見えた。
「最初は自分で考えようって思ってたんだけどね。やっぱり難しいからさ。誰かの名前をこっそり拝借する事にしたのだぁ!」
セシリアがえっへんと薄い胸を張る。セシリアの弁に少年は愕然して何も言えない。一方、ラルフはセシリアの言葉に面白いとばかりに笑みを浮かべていた。
「いーい? 私がページをパラパラって捲るから、好きなタイミングで指を差してね」
セシリアは住民録を膝の上に置き、こちらにも中が見える状態でパラパラとページを捲り始めた。少年は言われたままに人差し指を立てて準備を整えるも、ぴたりと動きが止まってしまった。目の前ではページはどんどん進んで行く。
パラパラ。
パラパラパラ。
少年は焦燥感に似た何かを覚えるが、しかし行動に移れない。目の前の本に指を差し、挟み込む。それだけ、それだけだ。何も難しい事では無い。
――ただ、その行動の持つ意味合いはとても重い。
自分で能動的に決める訳では無いが、自分の行動が直結して名前が決まる。それはつまり指を差すと同時に今の環境に甘んじる事を決意する、それを強いられる事に他ならない。この場で名前を決めてしまえば、少年は王国騎士団に所属し、ラルフやミーナ、セシリア達と共に日々を過ごす事が決定する。
目の前では本が捲り終わってしまい、ページの残りが尽きた。セシリアは送り手を逆にし、逆再生の様に再度ページを捲り直していく。部屋に響くのは紙の捲れる音だけだ。
もっとも、少年には紙の音何て聞こえなかった。少年は自分の心臓の音に圧倒され、紙の音だけに限らず、世界のあらゆる音が聞こえていない。
ばくばくと拍動する鼓動がうるさい。視界が眩む、明滅する。頭が痛み、手足がじんわりと痺れる。全身に倦怠感と痛みが交互に駆け巡り、平衡感覚を欠如する。
少年は今や、立っているだけの状態だ。それでも、目の前では何度も何度もページが進む、戻る。
「好きに選べ。お前がお前の為に、な」
少年の肩が叩かれた。びくっと身体を跳ねさせ、視線だけをそちらに向けた。肩を叩いたのはラルフだ。ラルフは優しい笑顔で少年の肩に手を置いている。
それだけで、少年の視界が開ける。視界は明るくなり、全身は平常に戻った。ラルフは少年の姿を見取って肩から手を放し、一歩引いた。
視線を戻す。目の前では尚もページが行ったり来たりだ。少年は再度手の形を整え、ゆっくりと人差し指を差し込んだ。
「ん」
セシリアが小さく声を上げて、ページを送っていた手を止めた。そして指先の名前を読み上げる。
「エリス――今日から、君の名前だよ」
少年――エリスにセシリアが静かに、優しく言った。少年は名前を耳で捉え、頭で反芻し、口の中で転がす。そして一頻り堪能した後に、しっかりと自分の名前を声に出す。
「エリス」
「うん、エリスだね」
セシリアが微笑みながら応える。
――ああ、どうやら気に入ってしまったようだ。
少年はどこか心地良い諦めを抱きながら、セシリアに微笑みを返したのだった。
少年にやっと名前が……!
これからの少年、もといエリスを温かく見守ってあげて下さい。