20 割れる東部
「――確かに、そんな話は私まで上がって来ていません。今しがた確認を取らせた所、その話の真偽に疑い様も無い。なるほど、闇商が見つからない訳だ。何せ、探していた相手は自分達――報告書に無い取引をしていたのは我々なのだから」
自嘲気味に目を伏せ、エルヴェは擦れた笑い声を上げた。
既に獣ですら寝静まる夜更け時。平時ならこんな時間に訊ねるのは無礼な行いに他ならないが、しかし今は大事。それも訊ねる相手が当事者であるのだから、無礼と言われる筋合いは無い。そう言った調子を無言の内に忍ばせ、第三班+アウレニアの七人は東部の詰め所、その最上階にある団長室に来ていた。
横に広い執務用の机に向き合い、座っているのは東部の副団長――エルヴェ・タークである。その席はエルヴェの物では無い。その席はアウレニアが仕える女史、ミカエラ・ヴァレニウスの物であり、彼にはその席に座る権限は本当なら無い――が、今は団長であるミカエラが倒れ、代理として腰を下ろしている。日々偉大なる団長の代わりを務めんと気を張り、しかし部下の騎士達が付いて来ない事に苦悩していた彼に団長代理の責は重かった。
それでも、自分は団長代理なのだと。強く想う事でこの椅子に座り続けていた――今日この時まで。彼にはもはや、この椅子が余りにも大きかった。
子供に大人用を宛がった様な、そんな不格好さ。エルヴェの消沈ぶりを言い表すなら、ただそれだけで事足りてしまう。エルヴェの変わり様は、彼に会った事のある人間に等しく驚きと憐情を抱かせる。精一杯頑張っていた人間が、自らの努力に食い潰された瞬間――余りにも惨たらしい現実が目の前にあった。
「――失礼、話を戻そう、否、話に入りましょう。先程、あなた達の報告を受け、取り急ぎ部下――私の言う事を聞いてくれる数少ない部下に調査させた所、あなた達の報告の裏が取れました。各商店から東部の印が押された取引証明が出て来ましたし、数名ではありますがこの件に関わっている騎士も捕えました。東部の騎士がなにやら不審な働きをしていたのは――間違いありません」
幾許かの時だけで立ち直ったのは流石と言うべきだろう――それが例え、見え透いたメッキだとしてもだ。
エルヴェは幾らかの自嘲混じりにミーナの報告を認める。言うなればそれは元来の任務である闇商――闇商自体は居なかったのだが――の捜索と確保を為した事を意味する。冷たい言い方を敢えて選ぶなら、この時点でアウレニアとエリス達は関わり合う義理が無くなった。
無論、そんな事は誰一人考えていない。エリス達も、エルヴェもである。
「――依頼内容の更新をお願いしたい。更新内容は『独断に走る騎士達の意図の解明、及び『王宮医術師』の確保』。どうか、私に力を貸して下さい」
「それは、あなたも私達と共に行動すると。そう捉えても宜しいですか?」
「えぇ。私にミカエラ団長の代わりは務まりませんでしたが……それでも彼らは私の部下だ。私には彼らの上に立つ者として、使命がある。彼らを正しく導く使命が」
ミーナに応え、エルヴェは席を立つ。団長の椅子を離れ、そこに居たのは王国東部防衛騎士団、副団長のエルヴェ・ターク。団長代理の名を辞めた、等身大の彼がそこに居た。
「――誰もあなたに導いて貰おうとか思ってませんよ。あなたが唯一私達の期待に答えていたのは、動かない無能っていう点だけだったのに」
そんな彼の決意を穢す声が、部屋に響く。声に釣られ後ろを向くと、そこには入口を囲み塞ぐ様に十数人の男が居た。
片手に剣を、身に鎧を。
鍛えられた剣気が惜しみなく放たれ、部屋の中へ吹き荒れる。彼らの剣と鎧には同じ刻印が為されていた。その刻印が差すは「東部防衛騎士団」。彼らは、己が上の者に反旗を翻したのだ。
集団の先頭に立つ男がこちらに切っ先を向ける。剣が鈍く、光を反射した。
「副団長、そして他の者共。出来ればここに留まって貰いたい。今日、この夜に。遂にミカエラ様が戻って来られるのだから」
男の言葉に、エリスは二人の動揺を肌に感じた。
一人は留守の代理を任せられた男、副団長として再び立ち上がったエルヴェ。
もう一人はその者に献身の限りを尽くす女、家門に彼女に忠誠を誓うアウレニア。
彼らの望みはミカエラを中心に形成されており、それ故に男の言葉に心が揺れた。ミカエラが戻って来る。その言葉にどれ程の歓喜の色があるか。
だがしかし、同時に彼らはその言葉の裏に考えを巡らす。ミカエラの身に何かが近付いている。それは確かで、目の前の男はその何かを根拠にミカエラの帰還を見ている。だが、目の前の男と二人が違うのはそれが良くも悪くも当事者であるか否かだ。
男の発言が真か偽か。男が言葉に込めた意思では無く、純然たる事実として真か偽か。それをひたすらに二人は考える。他ならぬミカエラの事だ――この判断は己が命よりも重い。
と、そこへ。
「蛙の足、猿の脳髄、鷹の眼球、鴉の羽、沙蚕の干物、河豚の毒血、勾玉の木の葉――」
セシリアの口から単語の羅列が紡がれる。音は絶えなく続き、意味の分からない言葉が室内を埋め尽くした。
こちらに剣先を向けている男が、眉間に皺を寄せて聞いて来る。
「……? 何を言っている?」
「ミカエラを治療しているとか言う、『王宮魔術師』が薬を作るのに必要って言った材料。これであってる?」
唐突な質問に、男は面喰らってしばし沈黙となる。男だけじゃない。その後方に控えていた騎士達も、男に剣を向けられているエリス達もまた、セシリアの言葉に幾分か困惑していた。この場面で男にそれを訊ねる意味も、そも言葉の意味も、良く分からない。今宵何度目の「分からない」か――エリスはそろそろ痛み始める頭に悶えつつ、セシリアの方をちらりと見る。
彼女の眼は真剣そのものだ。遊びも、躊躇いも無い。エリスはその目を見た事がある。それもすぐ近くで。あれは彼女が他人の傷を治す時の目と同じだ。彼女の目は何かを見据えて動かない。どこか遠い、けれど果てしなく近い何かを見る目。
彼女が時折浮かべる、固い決意と信念に燃える目だ。
「……あぁ、そんなんだったな。それがどうした」
男は長い沈黙の後、意外にも正直に答えた。
答える義理の無い問いではあった。だが、その答えの行く果てはミカエラ。彼らの行動の根幹にミカエラへの崇拝がある事に疑いの余地は無く、故にその根幹に関わるとなれば看過する訳にはいかなかったのだ。好奇心では無く、猜疑心が勝ったと言えよう。
彼らとて、無条件に件の医者を信じてはいない様であった。
「そっか……。ミーナ、ここに留まる訳にいかなくなった。彼らを倒してでも、一刻も早くミカエラの所に行かなくちゃいけない」
「――っ!」
眼前の男達が息を呑む。
彼らの心の内を代弁するならこうだろう――この小娘、何を言ってやがる。その弁自体にはごもっともと、エリスも頷き賛同したい。相手が剣を抜き、その切っ先をこちらに向けており、更にその後ろには十数人の騎士。一人一人が研鑽を積んだ騎士であり、その力は確かだ。こちらに不利な緊迫した場で、何を言っているのだとセシリアへ吼えたい衝動がエリスの心で暴れる。
それを抑えられたのは、セシリアの目を見たからだ。彼女の目は真剣そのもので、それ故に彼女の言葉も真剣に言ったものだと――つまり、この現状を理解した上で尚、すぐさまヴァレニウス邸に向かわなくてはならないと判断したのだと分かってしまったからだ。
「分からない」が続くこの夜に、この理解だけは不思議と身体に沁み渡った。
「それで『はいそうですか』と行かせるとでも? ガキが。大概にしろよ」
男は当然の激情をこちらに向ける。剣を空に降り、その音を持ってして威嚇とする。風切り音が室内に響き、その音に自らの斬殺死体をエリスは幻視した。
だが、次の瞬間には霧散する。何故なら、エリス達を庇うように、ただ一人の男が立ち塞がったからだ。
今は主不在の団長室。代理の者もその任を外れ、配下の者も大半が反旗を翻したこの騎士団。それでも尚、その男は副団長としてそこに立った。
片手には愛用の剣。扉を塞ぎ立つ男と同じ刻印の入った、凡庸な剣。だが、剣に乗せる技と心は別だ。
「お前達は悪くない。悪いのは私だ。間違えていた――私はどこまでもミカエラ様にはなれない」
「……良く分かってるじゃないですか」
エルヴェは剣を構えながら、静かに呟く。その声はただの言葉では無く、説く様な静けさと響きがあった。
扉を阻む男もまた、エルヴェに合わせて構えを取る。両者の構えは全く同じ――当然だ、仰ぐ相手が同じなのだから。この構えは、東部防衛騎士団の騎士全員が憧れ、尊敬する女史の構えなのだから。
鏡合わせの対立。
同じ者に羨望した者の辿る、尊敬する相手の模倣。模倣は敬愛と鍛錬を糧に限り無く本物に近付く。彼らのそれは、もはや単なる偽物では既に無い。
言わば半身に食い込んだ魂の一部――それをエルヴェは手放した。
鏡合わせの構図が崩れる。構えを解き、型を崩し、そしてもう一度構え直す。その構えは誰も、エルヴェですら知り得ぬ新しい構えだった。
「――だから、ミカエラ様では無く、エルヴェとして。お前達に向き合おう」
その一言を最後に、エルヴェは強く踏み込んだ。