18 アウレニア・ライツ
階下から美味しそうな匂いが立ち昇って来る。空の彼方に見えていた紅は消えてしまい、夜の帳が本格的にセルディールに降る。宿には未だエディ達三人は戻って来ず、エリスは手持無沙汰に「自己満足」の手入れを行っていた。
とは言え。アリバイ作り基、暇つぶしである手入れが一切暇つぶしになっていないのが辛い所だ。
――「この子は手入れを殆ど必要としない」とはシャーロットの言葉だ。
と言うのも、自己満足は柄の部分、刀身を咥えて離さない木の部分が常に刀身を修復・補強しているらしいのだ。俄かには信じ難い話なのだが刃か微細でも欠けると、刀身の金属に限りなく近い性質を持つ樹液が欠損部分を補い、修復するらしい。かと言って樹液が過剰分泌される事も無く、「自己満足」は放置していてもその姿を保ち続ける。
それが「自己満足」の持つ、特異な性質の一つである。
強いて欠点を挙げるなら、持ち主――エリスから常に微量の魔力を吸い続ける点だろうか。「自己満足」は武器と言いながら、その性質は限りなく生物に近い。近いと言うより、持ち手の部分は実際に生きているのだろう。そして、その生物部分が食事として求めるのが、エリスの魔力という訳になる。
魔力は生命力を変換させた物である。枯渇すれば命に関わり、多少の減少でも倦怠感を覚えたりする。しかし、「自己満足」が吸い取っているのは微量も微量。倦怠感からは程遠く、実害は零と言って良い。詰まる所、「自己満足」は欠点らしき欠点の無い、素晴らしい武器という話だ。
もっとも、今現在に限っては手入れの必要が無い事は即ち時間を潰せない事に繋がる訳で、必死に自己満足をあれやこれやと弄り回している物の、正直そろそろ限界だというのがエリスの本音だ。
早く帰って来てくれと、切に願う。
その願いが届いたのか、階下から一層濃く広がる芳醇な香りに惹かれたのか。エリス達の居る部屋の扉が数度叩かれ、中に見知った顔が入って来た。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「あぁ、ミーナ! 済まないね。君にさぞ悲しい想いをさせた……。償いとして今晩、君の隣で眠るとしよう!」
些か疲れ顔のフレドリックとは対照的に、イライアスは随分と元気だ――彼の吐息の匂いから察するに、どうやら酔っているらしい。
朗らかと言うべきか、陽気と言うべきか。上気した顔で室内を踊り、一階の人に怒られそうなステップを刻んだ後にミーナの足元に跪く。恭しく頭を垂れ、手を取り、ミーナの手の甲に唇を触れさせようとして――スナップの効いた裏拳に鼻頭を打たれた。
「おうっぷ!」
「酔いは冷めた? 足りないならもう一回いくけど」
物理的な冷たさすら帯びた様な視線で、足元に転がるイライアスを見下すミーナ。両手は固く握られ、今も尚みちみちと音を立て、拳を圧縮の果てに石の域にする作業が行われている。イライアスの返事如何では、ミーナの両拳が唸りを上げるのは明白だ。
「いや、良い一撃だった。お陰で目が覚めたよ。ありがとうミーナ、感謝する」
「……そ」
イライアスの言葉に短く応え、名残惜しそうに両拳が解かれる。室内の空気が元に戻り、思わず傍観者になっていたエリス達の口から安堵の息が漏れた。
「で、ただ酒を飲んで来たって訳じゃないでしょうね」
立ち上がるイライアスを目で追いながら、ミーナは幾らか棘の残る声色でそう告げる。
「いや、大丈夫。情報収集はばっちりさ。ただ、最後の一人――否、二人を待っているだけだよ」
「二人?」
ミーナが怪訝な顔でイライアスの言葉をなぞる。
現在室内にはエリス、セシリア、ミーナ、フレドリック、イライアスの五人が居る。第三班でまだ返って来ていないのはエディただ一人であり、二人とはならない。まだ酔っぱらっているのかと訝しげな眼をエリスはイライアスに向けたが、彼の顔からはいつの間にやら酒気が失われており、本当にミーナの一撃で酔いが覚めたらしい。
となると、彼の言葉を疑うのでは無く、彼の言葉の意味を考えるべきであり――、
「待たせた。俺が最後見たいだな」
思考を始めようかという所で、問題の正解を担うであろうエディ本人が帰って来た。同時にイライアスの言葉を理解する。エディの後ろには一人の女性が立っていたのだ。
「皆様、はじめまして。ヴァレニウス家で侍女を務めております、アウレニア・ライツと申します。皆様のお力を借りたく、この場に参りました」
先のミーナに対するイライアスの所作が軽薄に見える、真に礼節を重んじた所作だった。白と黒で作られた装飾が殆ど無い質素で、しかし清廉な気風を思わせるエプロンドレスに身を包んだ彼女は、恭しく膝を曲げ、スカートの端を両手で摘んで頭を下げる。足先から手先まで気品に溢れており、彼女の衣服が違い、絢爛豪華な物であったならば、それだけで侍女では無く主人であると勘違いしてしまうだろう。
曲げられた膝が戻り、頭が上がる。アウレニアの顔が前を向くと、凛とした双眸に各人の姿が映り込んだ。
「アウレニア・ライツ……。ハキーム戦争で最前線に常に戦ったミカエラを守る為に、自らもまた、常に最前線に身を置いた護衛人――『ヴァレニウスの盾』ね。お会い出来て光栄です」
「止めて下さい、ミーナ様。私は一介の侍女に過ぎません」
「そうだぜ、そもそもハキーム戦争の時はまだ侍女ですら無かったんだ。……本部の作戦全部無視してミカエラの所に駆け付けやがってよ。戦果を常に持って帰って来たのと、ヴァレニウス家のミカエラが庇ったから御咎め無しだっただけで、実際は戦犯者みてえなもんだ。侍女になったのだって三年前。ミカエラがあまりのしつこさに折れて迎えただけだからな。「ヴァレニウスの盾」って渾名だって自分で付けて、周りの奴らにそう言えって強制してただけだし……なんだ、何か言いたそうな目で見て?」
「なんか……詳しいね」
セシリアの一言はエリスの心情の代弁でもあった。
腕を組み、隻眼を鋭くして鼻息荒く愚痴る姿は、確かに虫の居所の悪そうな振舞いだが、しかしエディの言い分を踏まえるに、どうにも照れ隠しの要素があるのではないかと勘ぐってしまう。
すると、アウレニアの口から小さな笑いが漏れた。手を口に当て、笑みを隠す姿は確かに優雅その物であるが、しかし先程までの凛として整然とした姿からは少し離れる。もしかすると、こちらが彼女の本性なのかもしれない。
「いえ、失礼。兄の狼狽する姿など、久しぶりに見ましたので」
「「兄?」」
セシリアとエリスの声が重なる。視界の端ではミーナやフレドリック、イライアスも少なからず驚愕の色を顕わにしており、決して知っていた訳ではないのだと分かる。
そんな滑稽な光景が面白いのか。二重奏の疑問にアウレニアは小さく笑いながら首肯し、エディを手で示して言った。
「ここにおります、長身で無骨で無愛想な片目の男は、正真正銘私の兄――エディ・ライツに他なりません」
エディが観念した様に項垂れる。同時に、驚きの声が室内に広がった。