3 信じるという事
「ラルフー、連れて来たよー」
「おお、入って来い、入って来い」
思案に現を抜かしている間に、気付けば少年とセシリアは目的地に辿り着いていたらしかった。セシリアのノックと共に投げ掛けられた言葉は中から歓迎の言葉に応じられた。少年とセシリアは部屋の中へと入る。
――部屋の中は大量の書類が床からそびえており、ごちゃごちゃしている状態だった。滅茶苦茶に散らかっている訳ではないが、乱立する建造物群、もしくは土筆みたいな在り方だ。その程度は部屋の場所によって異なり、ラルフの座する事務机に近づく程に悪化している。混沌の中心が事務机であるのは明らかだ。少年とセシリアは徐々に狭まる足場に四苦八苦しながらラルフの元へと向かった。
「ミーナが片付けサボってる所為で散らかってるが……まあ、適当に腰を下ろしてくれ」
ラルフがそう言いながら幾つか指を指し示す。指し示した先は少年の勘違いで無ければ床に横向きで積み重ねられた書籍の山を示していた。幾らなんでも、と躊躇する少年の一方で、慣れた風でセシリアが書籍の山の一つに腰を下ろす。どうやらこれが常の様である。少年もとりあえず、バランスの良さそうな物に座る事にした。
「それで……どのようなご用件ですか」
一時の椅子代わりを少々の精査の末に見つけた少年は、形だけの導入として口火を切った。何せ、この状況だ。少年がラルフの下に呼ばれた時点で、少年の今後の待遇についての話以外何があるというのだろうか。ラルフもまた少年の自覚を見抜いたのか、少年の作り出した流れに乗る形で話を進め始めた。
「ああ、お前を連れて来て貰ったのは他でも無い。お前の配属先が決まった」
「配属先?」
「そうだ。ここの団員は各々班に割り当てられる様になっている。今回決まったのはその班の事だ。――お前には明日付けで第三班に所属して貰う事になった」
「ん、第三班? じゃあ、私と一緒?」
不意にセシリアが口を挟んだ。彼女の手には一冊の本が握られており、パラパラと無造作にページが開かれている。目は本の方を向いたままで、喜色溢れる声の割にはこちらに見向きもしていない。
「ああ、よろしく頼む」
「りょーかい」
セシリアが一瞬だけ左手で敬礼の様なポーズを取るも、すぐさま意識は本へと逆戻りだ。少年はそんなラルフとセシリアの応対を見て、湧いて出た疑問をぶつけずにはいられなかった。
「すみません……。セシリアさんって――」
「セシリア、で良いよ」
「――セシリアって騎士、何ですか?」
途中に訂正の声が入ったが、少年は構わず疑問を言い放つ。当然の疑問だろう。セシリアの背恰好は少年よりも低く、小さい。美しく、可愛らしい造形であれど、女性では無く少女と呼ぶのに一切の躊躇いを持たない幼さであり、とても「騎士」と呼ぶ様な年齢には見えない。
ラルフはセシリアの方を向いて溜息一つ、少年の問いかけに答える。
「ああ、そうだ。セシリアが言って無いみたいもんなんで俺から言うとだな。セシリアは第三班の副班長だ。見た目はともかく、立場も、実力も本物だ」
少年は思わずセシリアの方へと目を剥いて視線をやってしまう。セシリアは一見先程と変わらず、本へと視線そのままだ。もっともそれが格好だけの行為なのは明らかであり、本質が照れ隠しにある事は疑うまでも無い。その証拠に――耳元と頬が真っ赤だ。
「セシリアにお前を連れて来て貰ったのは面通しも兼ねて、って訳だ。……面通しで言うなら、班長との面通しも終わった事になるか」
ラルフが一人、図らずとも成し遂げた流れに気付いたと同時に、少年はラルフが言う班長の存在を思い出していた。
『私はミーナ。王国騎士団、第三班班長。よろしく』
ミーナの自己紹介。確かにその時、彼女は自分の事を第三班班長と言っていた。少年は静かに安堵する。少年の対人記憶は今の所ここに居る二人と、話に上がったミーナしか無い。少年にとって新たな人との出会いは興味などよりも恐怖が勝つのが現状であり、数少ない知り合いが居る環境との知らせは少年を安心させるに足る要素だったのだ。
そして自分の好都合に緊張が緩むのを感じつつ、目の前の男をちらりと見る。余りにも少年にとって都合の良い、配慮された様な事の運び。恐らく本当に配慮された結果なのだろう。
団長という立場に物を言わせて――まででは無くとも。ある程度その立場の力を利用してまで同年代の少女と、既知の人間を配置する事で新たな恐れを軽減する。なるほど確かに、少年にとってありがたい気配りに違いない。ありがたい、ありがた過ぎる。
故に――少年は警戒する。
少年の心を埋めるのはこの部屋に至る前と同じ思考だ。つまり、ラルフ、ミーナ、そしてセシリア、延いては王国騎士団。その面々を信じるか否かという事に他ならない。少年にしてみればラルフの気配りはありがたい一方で、申し訳なさから生じる罪悪感がある。更に踏み込めば自分の心の機敏を見透かされた事による、懐疑心に近い心情があるのも確かだ。少年は目の前の事態にただ戸惑う。
それは偏に少年に判断基準が無いからだ。少年には記憶が無い。記憶の欠如は、ここに至って少年を苦しめる。
少年には分からない。これは果たして本当に信じて良い場面なのか否か。
記憶が無い少年には、これと言った信条が無い。過去の経験も無い以上、是非の判断を導き出すのは非常に難しい。
赤子は実体験を基に学習する。
熱い物を触ると火傷する。だから触らない。こけると痛い。だからこけない様にする。濡れると寒い。だから傘を差す。全ては経験に基づく物だ。
人への判断も同じだ。
人に騙された。だから人を疑う。人に親切にされた。だから人を信じる。
少年は何も全てが無くなった訳ではない。現に少年は言葉を話す事が出来る。つまり少年には自身の年齢こそ分からない物の、恐らく少年らしい、それなりの知識が残っているという事だ。少年の思考能力は失われていない。
ただ前例が無いだけで。
経験が無いだけで。
料理と同じだ。
材料に下拵えを施し、然るべき工程を経て調理する。知識としては誰でも分かるだろう。ただ、それを未経験者がすぐに出来るかと言われれば出来る筈も無い。何故なら度合いが分からないからだ。
材料はどれ位の大きさに切ればいいのか。焼くのは、煮るのは、蒸すのは、どれ位の時間なのか。味付けはどれ位が適正なのか。どれもしなければ分からない物ばかりだ。
ただ、料理にはレシピがある。その点においてのみ大きく異なるだろう。人の判断に答えは無い。あるのは、当人の価値観に依る是非だけだ。
少年は悩む。
ただ、悩む。
答えが出ないと薄々勘付きながらも、それでも思い悩む他に道が無い。これが知性すらどこかに行っていたなら話は別だろう。ただ、少年には悲しい事に独立した知性だけが残されている。少年に「考えない」という選択肢は無かった。
「……まーた、悩んでんな?」
ラルフの言葉に少年は現実へと引き戻される。そこで初めて、少年はまたも自分が思考の海に独り耽っていたのだと気付かされた。
「ごちゃごちゃ考える気持ちも分かる。見た事無い、知らない奴ばかりなんだ。見た事無い、知らない事ばかりなんだ。そりゃあ、怖くもなる。だからな。いや、だからこそだな。お前は、俺達を頼って良い」
ラルフはどんと自分の胸を叩いて誇らしげに言い放つ。少年はその姿から少し視線を逸らして、おずおずと訊ねた。
「どうして、ですか?」
「決まってる――俺達が騎士だからだ。騎士は弱き者を守る存在だ。お前は今、弱い。何も知らず、何も持たず、ただ独りだ。そんな存在を俺達が見過ごせる訳が無い」
ラルフの言葉には恥じらいも、後ろめたさも全く無い。その言葉がラルフの芯から出ている事に疑う余地は無かった。
「俺達を信じろ。俺達は信じてくれた分だけ、お前を守る。それでまた、いつかお前が強くなった時、今度は俺達を助けてくれれば良い」