7 男児禁制、女子談合
俗に「女の子路」と呼ばれる、甘味処が集まった通りがある。一歩踏み入れば鼻腔に甘ったるい空気が抜けて、大半の男へ頭痛を生じさせる。数少ない耐性持ちの男も目の色を変えて彷徨う女子達に圧倒され、数分の滞在で心が折れてしまう――男子排斥、女子限定の楽園。
「お待たせしましたー。『甘とろタルト』と『甘酸っぱタルト』でーす」
そんな中に「トルテ」は小ぢんまりと営業している。
タルト専門店「トルテ」。
営業時間は午前十時から午後六時までと短めで、店内に四人席が二つ店外に二人席が三つと、あまり滞在スペースも広くないこの店だが、その盛況振りは辺りの店から頭抜いて、「女の子路」の中でも有数の人気店である。
ただ今の時刻は午後四時二十分ジャスト。
ピークこそ過ぎた物の、列が無くなる事は決して無い。ましてや席に空きがある事など更に無い。故に、店外席に座っている二人の少女――片方は幾分大人びているし、二十二歳という年齢を思えば少女と呼ぶのに無理がありそうだが、甘味を前にしたその目は紛う事無き乙女の目であり、童心に戻った少女のそれである――は苦労に苦労を重ねた末で今の席を獲得した事になる。
「やっと来たね! さぁ、食べちゃおう!」
寸前までの疲労を彼方に追いやり、逸る気持ちを前面にしてフォークを掲げる金髪翠眼の少女は、喜色満面の笑みで対面の女性に言った。それを受けた、長い黒髪を後ろで一つに結った、いつもの鋭い目付きを幾らか丸くした女性は、少女の考えに賛同とばかりに自身もフォークを構える。
それを合図にしたかの様に――二人の目が変わった。眼前のタルト以外を世界から排除し、唯一無二となった対象に全身全霊を持って挑む。フォークを持つ手が達人の様な、無駄の無い流麗な動きで対象に接近し、熟練の暗殺者の如く、一切の余分な力を感じさせない最小の力で、大き過ぎず小さ過ぎない程度に切り取る。
ここまで来れば勝利は目前だが、しかし彼女達は毛の先程も油断をしない。幾人の戦士が、そして他ならぬ自分が、獲物を口に入れる前に取りこぼし、絶望に叩き落とされたかを知っているからだ。
だから油断だけはしない。鼻先をくすぐる芳醇な香りにも、色艶鮮やかな彩色にも、決して気を取られたりしない。全ては至高の一口目の為――眼前の誘惑の数々を彼女達は甘んじて受け入れつつ、しかし強靭な精神で持って心の揺れを抑えつける。
――そして、歓喜の瞬間が訪れた。
運ばれた獲物が、歯に擦り潰され、唾液と混じり、胃へ落ちて行く。舌の上で広がる無上の快楽は、余す所無く脳へ伝わり――
「「おいしい~」」
二人の表情筋から緊張が完全に取り払われた。
ここは「女の子路」。日頃の心身の疲れを忘れ、幸せに没頭する世界である。
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「うん、やっぱり『トルテ』は外れが無い。今回も大当たりね」
「そうだよね。あ、そっちの一口頂戴。こっちのもあげるから」
ほんわか雰囲気全開で、セシリアとミーナは互いに互いのタルトをフォークで掬い、相手の口に運ぶ。俗に言う「あーん」と言う奴で、平時の精神状態なら赤面、少なくとも、他の班員に見られてしまう可能性を僅かでも孕んでいれば、ミーナはそんな愚行絶対にしないだろうが、しかしここが『女の子路』であり、極上の甘味に酔い痴れている二人にして見れば、そんな感情は些細な物でしか無い。寧ろ、それで味わい損ねる方が悔やまれる。
「「おいしい~」」
ちなみに。
セシリアが食べているのは『甘とろタルト』――林檎と梨のジャムを基軸に据えた、濃厚な甘さを僅かな酸味が爽やかにまとめ上げた一品。
ミーナが食べているのは『甘酸っぱタルト』――四種のベリーをふんだんに用いた後味さっぱりな甘さで、そのさっぱりさが更なる一口を欲しくさせる一品。
そんな感じで、二人が食べているタルトは互いに方向性が違う品々である。
「はぁ、やっぱりもやもやした時は甘い物に限るなぁー」
弛緩した表情そのままに、セシリアが夢心地で呟いた。ミーナはセシリアの言葉自体には同意しつつ、彼女の言葉、その本質的な所へ奇異な物でも見た様な気持ちになる。
「……何かあったの?」
エリス辺りは正しく認識出来ているか知らないが、セシリアはこれで相当に優秀な人間である。この年で「魔術」を扱えるだけでも凄まじいのに、その技量が大人顔負け所か王国で五指に入る程の腕と知れれば、誰でも――恐らくは正確にその偉業を理解していないエリスなどを除いて――息を呑んで、彼女に畏敬の念を抱く事だろう。
もっとも、そこに至るまでの道のりを知っているミーナは、必要以上にただの少女を飾り付ける、歪んだ色眼鏡で見ていない。見ていないが、セシリアの努力と、その結果として今ある彼女の能力を尊敬している。
素直に凄いと思うし、負けていられないと思う。
だからこそ、年の差など些細な問題を通り越して、セシリアという一人間を尊敬しているからこそ、ミーナは彼女の発言に困惑と驚きがない交ぜになった感情を抱いた。
セシリア最大の強さは、魔術でもそれを支える頭脳でも無い――自身の信念に殉ずる事の出来る意思の強さだと、ミーナは考えている。そんな彼女が何か不明瞭に思い悩む姿を、ミーナは余り見た事が無い。班長だからだとか、そんな立場的問題では無く、一人の友人として、セシリアの姿に戸惑った。
「んー……。何かあったって言うよりは、何も無くて、だからこそもやもやするって感じなんだけど」
セシリアの煮え切らない答えにミーナはじれったい気持ちに駆られたが、セシリアの表情が語るには、彼女自身、もやもやの本質が掴めていないようだった。眉間に皺を寄せ、うんと考え込む――即断即決傾向にある彼女にしては、随分と「らしくない」光景に見える。
と、タルトのお供に出された紅茶の味わいに舌鼓を打ちながら、ミーナはセシリアの今の表情を、ここ最近良く見る気がすると思い至った。そこまでくれば問題の全容は見えずとも、原因となっている人間については明らかだ。潤った舌を踊らせ、ミーナはその名前を口にする。
「エリスと何かあったの?」
「――うん、そうなるのかな」
名前という具体性を帯びた問い掛けに、今度のセシリアは首肯する。それを見てミーナは「やっぱり」と、自身の予測が当たった事を当然の様に受け入れた。
自分含め、殆どの相手に対して滅多に向けられない、セシリアの困惑と躊躇いに満ちた思案顔。造形の整った表情が悩みに歪むその姿は、年相応の青さと年不相応の思慮深さが窺え、一種の背徳感を抱かせる芸術品にすら見える。幾年かの成長を経れば、あまねく男を惑わせる色香になるだろうと、そう予感させる妖美な憂い顔――それをここ最近独占している羨ましい少年が居る。他ならぬ、エリスである。
エリス当人の前では自省している様だが、不意の瞬間――エリスが目を逸らした時や、彼と別れた時、セシリアがどこか遠くを見る目で何かを考えている姿を、ミーナは何度か目撃している。もっとも、次の瞬間には霧散している様な、刹那の逡巡なのだが。
どうにも、ミーナ率いる第三班、その年少二人組は自分達だけで思い悩む傾向にある。エリス然り、セシリア然り、自分の抱える問題を他人に預ける事を是としない。エリスの方は最近、セシリアに自分の重荷を分け、背負って貰う事が多少出来る様になったようだが、セシリアはてんで変わらずだ。そんな彼、彼女の生き方を自分に強く向き合う、芯のある人間と賞賛する事も出来るだろうが、他人を慮る割に自分に厳しい自罰的な生き方は、美徳では無く悪徳である――少なくとも、ミーナはそう考えていた。
同時に、自分はそんなにも頼りないのかと、悔しさと落胆に歯噛みする想いがあった。
それが今日はどうやら、風向きが違う。
憂いを隠そうともせず真剣に思い悩む姿に、ミーナはセシリアを助けてあげたいという衝動に掻き立てられた。
「何かあったなら、相談に乗る。班長だとかそんなのじゃなくて、ただの私として」
目の前の少女、セシリアが目を見開く。透き通った翠緑の双眸には、不意の言葉に晒されて驚きが溢れていた。
「それとも、そんなに私は頼りない?」
卑怯な言葉だと、言いながら思った。事実、セシリアは慌ててミーナの言葉を否定しに掛かる。
「そんな事無い! ミーナは私を支えてくれる、大事な仲間だもん」
「じゃあ、話して欲しい。私は、セシリアの力になりたいから」
セシリアの罪悪感に付け込む言葉。だが、その言葉に嘘は無い。尊敬する少女を助けてあげたい――それは紛れも無い、ミーナの本心だから。
「え、と。じゃあ、お言葉に甘えて」
しばしの逡巡の後に、セシリアは意を決して口を開いた。次に漏れ出る言葉は何か。ミーナは緊張に乾く唇を紅茶で湿らしつつ、静かに待った。
「――エリスがあんまり私を頼ってくれないの。どうすればいいと思う?」
荷物を誰かに預けるでもなく、寧ろ自分から更に重荷を背負わんとする少女の姿に、ミーナは軽い目眩を覚えた。
――こりゃ、重症だ。
他人の傷を治す事ばかりに執心なセシリアを、どうすれば自分の傷も気に掛ける様に変えられるのか。ミーナはそんな難題に頭を痛ませつつ、タルトの最後の一欠けらを口に放り込んだ。