2 名前
緑だ。
目の前に緑だけが広がっている。自然の緑では無く、妙な艶がある緑だ。少年は眠りから覚めたどこか呆けた頭である故に、眼前の光景に然したる行動を取る事が出来ないでいた。
少年の見た緑の正体は少女の瞳だ。少年は今、鼻はおろか唇すら当たりそうな距離で少女に凝視されている。少女の足は地面に無い。ベッドに乗り込んで、少年を押し倒した様な体勢で覗き込んでいるのだ。恋仲の睦まじい光景に頑張れば見えそうだが、何となくそうは見えない奇妙さがそこにあった。
仮にこの状況を一歩引いた所から見た者が居れば無言で遠ざかるか、横目に遠ざかるかのどちらかだろう。どちらにせよ関わりたくない類の光景だ。
「あ、起きた?」
少女が不意に口を開く。吐息がもろに当たり、少年の呆けて開かれた口にそのまま吐息が滑り込んで行く。少年は他人の吐息が自分の中に入る気持ち悪さに身悶え、遅すぎる位だが、やっと少女を遠ざけた。
「……起きたも何も、そこそこ前から起きてたよ」
「ありゃ、そっかぁ。道理で目が開いてた訳だ」
少女はすとんとベッドから床に足を下ろし、悪びれる様子も無く少年に向き直った。少年はここで初めて少女の全容を視界に収めた。
――少女は恐らく美形と言われる種類の容姿だろう。
肩より少し長い金髪は手入れを怠っていないのか、動きに伴って靡いている。双眸に彩られた緑色は、少女の金の髪と対比する存在の様に、出過ぎない程度に主張されている。ほのかに灯る唇は艶めかしい色がある。透き通る肌は思わず手を伸ばしたくなる逸品だ。幼さ残るその姿も妖美さを予想させる、それでいて人形の様な造形美を匂わせている。全てが計算尽くとは言わないが全体の調律を意図された様な可憐さがそこにはあった。
少年は今更ながら少女との至近距離の接近を思い出して顔が火照るのを感じた。どこか気恥かしさを感じ、少年は少女から視線を逸らす。
「で、君はどうしてここに?」
「ん、え、ああ! そうそう、呼びに来たんだった」
「呼びに来た?」
「うん、ラルフが連れて来いって」
ラルフ――少年は眠りに付く前の記憶を呼び覚まし、それが王国騎士団の団長を名乗るあのわざとらしい笑みを携えたロリコン容疑の男であると思い出した。
「さ、行こっか」
「う、うん。ちょっと待って」
少女は既に部屋から半分以上身体を廊下側に踏み出し、早く早くと少年を急かしている。少年は慌ててベッドから下り――ようとして、自分が裸足である事に気付いた。流石に裸足で床を、更に言えば廊下を歩くのは抵抗がある。少年の足は床に付く寸前で止まり、宙を彷徨って行き場を見失った。少女は最初こそ怪訝そうな表情をしたがすぐに少年の躊躇いに気付き、部屋にとことこと舞い戻って来た。
「あはー、ごめんごめん。はい、スリッパ」
少女は部屋の隅からスリッパを持ち出して少年の足下に置いた。サイズは少年の足にぴったりで、それが少年の為に用意されていたのは明白だった。ならば恐らく、スリッパの用意を忘れていた少女の怠慢だったと、そう判断して良さそうだ。
「じゃっ、気を取り直して行こっか」
「うん。案内を頼むよ。えーと……」
少年は少女にラルフの待つ場所までの案内を頼もうとして、そう言えば自分が少女の名前を知らない事を今更ながらに気付いた。
「そう言えば……君って名前何て言うの?」
「あれ、言ってなかったけ? 私はセシリア。セシリアだよ。よろしくね」
少女――セシリアが少年に手を差し伸べる。その手に応えようとして、「ああ、当然だけど自分には名前が無いから、こういう場面で名乗れないんだ」と痛感した。どこか申し訳ない気持ちになる。少年は伸ばしかけた手で宙を掻いた。
「ん? どうしたの?」
「いや、僕は名前が分からないからさ――」
「そっかー。じゃあ、私が考えてあげる」
セシリアの突然の申し出に少年は面を喰らって絶句した。その間にも少女は既に少年に背を向けて歩き始めている。しかし歩く傍ら、腕を組んでうんうんと唸っているのは恐らく少年の名前を考えている故だろう。
セシリアの背を追いながら、少年はセシリアの申し出について思いを馳せる。セシリアの申し出、つまり名付け行為というのは、なるほど確かに現在の利便性を求めるには有効だろう。名前が無いのは不便だ。名前は必要だろう。
しかしセシリアに名付けられる事の意味するのは、この場所に一定以上の束縛をされてしまう事になる。
名前は人を人として独立した存在にする要素だ。
名前が変われば人は変わる。
名前が変われば過去は薄らぐ。
名前が変われば可能性も揺れ動く。
最適解は少年自身が記憶を取り戻し、自分の名前を思い出す事だろう。とは言え少年には記憶を思い出せる取っ掛かりすら無い。記憶を失った理由すら分からないのだからそれも当然だろうが。
つまり仮にしろ、それを真の名前とするにせよ、少年には名前が必要なのだ。少年が悩み、躊躇い、恐れるのは、その名前をどこに由来する物とするか、その一点に尽きる。
少年は目の前の歩みに伴って左右に揺れる金髪の背を見やる。
少年にとってセシリアは悪印象では無い。寧ろ好印象の方に位置している。幾分初対面の衝撃が強かったが、短い交流の中には温かみがあった様に思える。
他の二人――ラルフとミーナの両名にも悪印象は無い。これもセシリアと同じく好印象と言って差し支えないだろう。ただセシリアと違い大人、つまり年の差があるからか、少年にとってセシリアよりは馴染み辛いとは感じているのは否めない。
総括して、少年の記憶が始まった時から――消失後の記憶の開始と言う意味だ――出会った三人は少年にとって「良い人」の括りになるだろう。それ故に、少年は警戒していた。
明らかな黒い、汚い面でも見たのなら、ある意味において安心する事も出来るかもしれない。つまり自分は騙されているのでは無く、危険管理が出来る状況にあるのだという安心を得る事が出来る。しかし良い面だけしか見えていないなら、相手の裏を知らない、つまり自分は騙されているかも知れないという懸念が残るのは必然なのだ。
――少年はただひたすらに、相手を信じて良いのかを悩んでいた。