1 自分だけの武器
ブレポスの一件から早一月、エリスは悩みを抱えていた。
エリスの悩みと言えば、ブレポスの事件以前ならば「記憶喪失」である事と、「自身の過去に対する恐れ」が大半を占めていた。しかしそこに、新たな項目が加わりつつある。その項目の名は「期待と実態の差異」である。
エリス自身の戦闘技能は、どれだけお世辞を尽くそうとも、素人より幾分マシと言った程度だろう。だが、現実として周囲の人間はそれよりも随分と高い評価を下している。それは何故か――エリスの意識外に潜む、件の「自動反応」の所為だ。
エリスの身体は彼自身の精神、意識を振り切り、勝手に動く事がある。それは専ら戦闘中に発生し、彼自身を守る様に動くのだ。言わば自動の防御。エリスの評価はこの性質によって、防御においては、プロである騎士達から一目置かれる程の物となっている。
ただ、これだけなら良かった。良くないけど、良かった。真に厄介なのはそこに新たに加わった評価である。
エリスはブレポスの事件の際、彼自身を囮とする作戦を提案し、作戦こそ失敗に終わった物の、その過程で人狼病感染者を一人(一体?)倒してしまった。その結果、周囲はエリスを防御だけでなく、「人狼病感染者を倒せる程度の戦闘力」と認識してしまったのだ。無論、エリスはそれを「火事場の何とやら、ただの偶然ですよ」と間接的に否定したのだが、期待が薄れる事は無かった。
偶然にせよ何にせよ、魔物である人狼病感染者を倒した。その事実は鍛えれば強くなる可能性を感じさせる、エリスの潜在能力を思わせるエピソードである訳で、周囲の眼差しが変わるのも無理は無い。
しかし、現実にはエリスのこの功績もまた、彼の性質に根ざす物である。発動条件が分からないこの自動反応は、人狼病感染者との対峙の時においてのみ、攻撃に作用した。つまり、エリスに注ぐ期待と評価は、「エリスの功績」でありながら、「エリス自身」の功績では無い事になる。
これが自分の意思で、任意で、自動反応を起こせるならまだマシなのだが、エリスにはこの自動反応がどのタイミングで起きるか、全く持って分かっていないから性質が悪い。セシリアに恐るべきこの性質を「武器」と思う様に言われた事で、この性質への恐れは幾らか無くなった物の、それでもこの性質に振り回されている感は否めないのだ。
エリスは今、自分の意思で振るう、自分だけの「武器」が欲しかった。
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「で、どうすればいいと思う?」
人には相談できない相談をする時。以前なら一人で溜め込むしかなかったエリスも、これまたブレポスの一件を機に他人に話せるようになった。つまりはセシリアへの相談である。
エリスはセシリアの部屋を訪れ、悩みを打ち明けた。
「うーん……難しいよね。エリスの性質は他人から見れば、エリス自身の行いに他ならない訳だし。かと言って、エリスの意思及ばぬ所での性質である以上、『手を抜く』事すら出来ないし」
そう、エリスの性質で厄介なのはそこである。エリスの意思に関係無く発動するという事は、つまりエリス当人の思惑に反して発動するという事でもある。周囲からの評価を下げようと、わざと体たらくを演じようとしても、いざ戦闘になれば否が応にも自動での防御が発動してしまう。それは事、戦闘に限った話では無く、模擬戦闘である訓練でも同じ。即ち、評価は下がる所か上がり続ける始末なのだ。
「やっぱり私は、エリスの性質の発動条件を見つけるべきだと思う。そうなれば、敢えてその条件を外す事で性質を抑制したり、任意での発動が出来るかも知れないし」
セシリアは真剣な面持ちで、以前にも言った結論を告げる。セシリアの弁は実現出来れば、確かに理想的だろう。ただ、問題は――
「どうやってその、条件を見つけるか」
「うん、そこなんだよね。何が条件なのかを探るのが凄い難しいってのが、また問題だよね」
結局、幾度と交わした議論はここで躓いてしまう。つい三日前も夕食の際に似た様な会話をしたが、ここで止まってしまった。
だがしかし、本日のセシリアには閃きがあったらしい。ぽんと手を打って晴れ晴れとした表情を見せた。
――実に魅力的な笑顔なのに、エリスは背筋に悪寒が奔るのを感じた。嫌な予感がする。
「エリス、そこで顔を突き出して止まって」
「こんな感じ?」
「そう、そこで止まっててね」
顔だけをずいっと前に突き出した格好悪い姿勢で、エリスは言われるがままに動きを止めた。セシリアはそれに満足すると、部屋履きにしていたスリッパを脱いでから右手に持って――思いっきりエリスの左頬にぶちかました。気持ち良い位の音が、部屋に響く。
「~~っ痛ぁああああ!」
「自動での防御は無し、と」
セシリアは、痛みに悶えるエリスを無視して事実確認を呟くと、手首を翻し、エリスの右頬目掛けてまたもやスリッパを振るった。鼻先こそ掠めたが顔を引っ込ませる事で、今度は間一髪の回避に成功した。
「セシリア、何するのさ!」
「今度は反応した、かぁ」
「違うよ! 普通に避けたんだよ!」
エリスの文句を無視して冷静に分析するセシリアに、エリスは喰いかからんばかりに吠える。セシリアはエリスのそんな様子を見て、やっと暴挙の真意を語った。
「いやね、エリスの『戦闘』の境界線を知りたかったの。私にスリッパで打たれるのは、エリスの『戦闘』に含まれないみたいだね」
「いや、いやいや。そうならそうと言ってよ。言ってくれたら……言ってくれても嫌だけどさぁ!」
エリスは腫れあがり、熱を帯びた頬を擦りながら嘆く。セシリアはそんなエリスに「ごめんごめん」と謝りながら、エリスの左頬に両手を翳した。
治癒魔術。セシリアの手から青白い光が溢れる。色の印象とは違って、ぬるま湯の様な温かさを持つその光は、見る見る内にエリスの頬を癒す。数分も経たぬ内に、エリスの左頬から腫れが引いた。
「うぅぅ……」
既に痛みは消えたのだが、何となく心情的に頬を擦りつつセシリアから距離を取る。そんなエリスに、セシリアは困った様な笑顔を浮かべながら、しかし容赦無く距離を詰めた。
「じゃあ、次は抓るね。ほら、先に言ったから良いでしょ?」
「いや、良くない」
眼前に広がる妙な笑顔に言い得ぬ圧迫感を受けながら、エリスは冷や汗流してじりじりと後ずさる。その速度のおよそ倍程の早さで、セシリアがずいっと詰め寄って来る。
逃げる。追い付かれる。
逃げる。追い付かれる。
逃げ――られなかった。
とんっと、背中に軽い感触が奔る。ちらりと後ろを振り向くと、そこには壁があった。これ以上、退がれない――!
「エリス? ほら、じっとして……」
「あ、あ、あぁぁ」
息のかかる距離にセシリアの顔が近づく。そのまま彼女の魔の手が伸びて――
「セシリア―? ちょっとエリスと買い出し、に……」
部屋の扉が開かれた。そこに居たのは困惑と申し訳無さに、表情筋が行き場を失ったミーナだ。途端、エリスとセシリアは現状を再確認してしまい、顔に火が灯る。恥ずかしさに、二人は互いを弾き飛ばす様にして距離を取った。
だがしかし、子供達の青春を邪魔してしまったと誤解したお姉さんは、既にそう言った取り繕いを視界に収めていなかった。
「し、失礼しました……。ごめんね、邪魔して」
「「ちょっと待ってーっ!」
エリスとセシリア、二人の悲痛な叫びが、宿舎中に木霊した。