23 一人と独り
固い地面への不快感と風が頬を撫でる感触に、エリスは溶ける様に寝ていた身体を起こした。周囲は真っ暗な闇。唯一の光源は空から降り注ぐ月光のみだが、しかしその唯一の光は森の木々に遮られて地面にまで十分には届いていない。
しばらく目をこらすと、凹凸は分かり辛いものの、しかしシルエットが分かる程度には目が慣れた。エリスは周囲を見渡して状況の確認を行う事にした。
上、月の光と木の葉の天蓋。
下、落ち葉が積もった栄養豊富そうな地面。
右、不規則にそびえる木々の群れ。
左、――左。血の河をどくどくと垂れ流す死体。
「ひぃ!」
エリスは滑稽な悲鳴を挙げて後ずさった。目の前の死体は何度見ても、見紛う事なき死体だ。首がくの字に折れ、心臓に掌大の風穴を開けて、あれ程の血を垂れ流して死体で無いとするなら、それはもう生きていたとしても生物とは言えまい。言うべきではない。
「――うぅ!」
ぐっとせり上がって来た酸の臭いに、エリスは反射的に口を手で押さえた。遅れて猛烈な嘔吐感が込み上げてくる。何とかそれに堪えながら、エリスは死体の方をもう一度見た。
執拗に殺されきった惨殺死体。その姿にエリスは見覚えがある。エリスの体感としては少なくとも先程まで、自らを殺さんと迫り来ていた怪物。その成れの果てが目の前の死体である。
人狼病感染者の戦闘力は言わずもがな、身を持って体験したエリスには身に沁みた事である。故に、エリスは眼前の光景がどうにも信じきれないでいた。目の前でどれだけ歴然たる事実としてあったとしても、五体に刻まれた傷の一つ一つがどうにもそれを素直に認めさせない。
と、エリスは右手に違和感を覚えた。生温い液体に塗れている様な、そんな感触が纏わり付いているのだ。
嫌な予感がする。
脳がけたましく警鐘を打ち鳴らす。
見てはいけないと、全神経が訴えかける。
それでも抗い難き衝動に駆られ、エリスは自身の右手へと視線を落とした。
「……ぇ?」
エリスの右手は、血に染まっていた。
既に血は黒く変色し出しており、触れればパラリと欠片になって剥がれ落ちそうだ。エリスの右手に大きな怪我がある訳でも、自身の怪我を右手で拭った訳でも無い。気絶していた間に死体の血の川に右手を浸していたかと考えるも、起きた時に全身のどこも血の河に沈んでいなかった事からそうでない事も分かる。無論、可能性としては考えられるだろうが、エリスにはそれよりも高い可能性が浮かんでいた。
それは信じたくなくて、しかしおぞましい程に実感の伴った予想だ。エリスは脳裏に映るその光景を、必死に夢や幻想だと否定し続けていた。
ただ、身体が自分の意識から乖離した動きだった。嘘であると思いこもうというのも分からないでも無い。
だが、幾ら目を逸らしても、真実は追い縋って追い付いて、エリスの目の前にご丁寧に真実の証明を並べてくれる。記憶が、手の感触が、目の前の光景が。エリスに無言で認めるようにと詰め寄って来る。
エリスは遂に真実に負けて、声に出してそれを認めた。
「僕が、殺したのか」
必死に目を逸らして、必死に分からない振りをしていた過去の業。そんな物に関係なく、寧ろそれを後押しする様に。エリスは晴れて人殺しになった。
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「あの時、人狼病感染者に殺されそうになった瞬間。僕の身体は勝手に、僕の意識に関係なく動いた。防御の時と同じ様に。でもこの時は、この時だけは違って。勝手に動いた身体は相手の首をへし折って心臓を貫いた。僕はその事実に耐え切れなくなって気絶したんだ」
「ミーナに発見された時は? その時も気絶してたって」
「うん、その時はもう一回気絶してたんだと思う。よく覚えてないけど、死体を見た時の記憶がおぼろげだから、多分」
森の中で起きた事を話し終え、同時にセシリアからの問い掛けにも答え終えた。エリスは長く話し続けた事と、自分の溜め込んでいた物を一気に解き放った事から来る膨大な倦怠感を溜息にして吐き出す。長い、暗い溜息の後に、エリスは自分の頬を叩いて気合を入れ直した。話は終わった。しかし、ここで会話を止める訳にもいかない。独白の後は話し合いだ。これからをどうするか、それを考える事こそ本題なのだ。
「要するに、今までは防御でしか起きなかった自分の意思に無関係の自律行動が、その時は攻撃でも起きたって事だよね」
「うん、原因は分からないけど。……そもそも、防御の方だって原因とか分かってないけどね」
静寂が部屋を包む。しばしの沈黙の後、セシリアが手を打って左の人差し指を立てた。気持ち胸を張ったその姿は何だか、偉そうにしようとしたのに成り切れず、子供が背伸びして大人の振りをしている感じに見える。
「髪の短い大男で、部屋の片づけが出来ないずぼらな何処ぞの団長は言いました」
「それ、団長の事だよね?」
「『幾ら考えても分からない事は考えるな。考えるだけ無駄だ』。この場はこの言葉に従いたいと思います。エリスの意識外の自律行動、これは幾ら考えても原因も理由も分からないと思う。なら、この『武器』の使い方を考えないと」
「武器? 使い方?」
セシリアの妙な発言にエリスは首を捻る。セシリアはエリスの言葉に頷いてから、先の言葉を続ける。
「幾ら考えても分からないなら、前向きに捉えなきゃ。騎士は人を守る存在。なら、エリスのそれは立派な武器だよ」
「でも、もし無差別に人を殺し始めたら? 条件も原因も分からないんだから、そうならないとも限らない訳だし」
「だから、そこは使い方を考える。ラルフの言葉はね、考えなくて良い事は考えるなって意味なの……多分。私だってエリスのその性質を抑える方法を考えるし、エリスだって考える。エリス独りで考えるよりもマシでしょ?」
セシリアの発言は一見すると今までのエリスの優柔不断さと変わらない様に見える。しかし、問題から目を逸らし続ける今までのエリスと、問題を見据えて必要な事だけを考えるセシリアでは全く持って異なる。問題の先送りでは無い。出来る事を出来るだけやるというのがセシリアの言う武器の使い方である。
エリスは心に何だか温かい物が満ちるのを感じた。
こんなに簡単に重荷が無くなるのか。今までの苦悩を思わず笑い飛ばしたくなってしまう。
我慢する事も無いだろう。エリスは心の赴くままに感情を解き放った。
「は、は、ははははははは!」
「え、エリス。いきなり笑いだしてどうしたの? 凄い怖いんだけど」
「いや、何だかおかしくなっちゃって。ははははは! はは、はぁ。……セシリア」
「なに?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
セシリアはエリスに微笑んで、エリスも重苦から解放された喜びに酔い痴れる。二人の晴れ晴れとした笑い声は、ブレポスの夜闇にいつまでも響いた。