21 激情
遠くから声がする。誰かが自分を呼ぶ声だ。
エリスの深くに沈んだ意識は、呼び掛けの声に揺さぶられて俄かに目覚め始める。身体の感覚が五体に満ち、音も鮮明になり始める。
「エリス、エリス――!」
セシリアの声だ。呼びかけるその声には、必死なまでの懸命さが滲んでいる。自分を呼ぶ声はセシリアの物だった。ならばいつまでも寝ている訳にはいかないだろう。エリスは重い瞼を開く――視界一杯の青白い光に目が眩んだ。
「エリス、大丈夫? 私が分かる?」
青白い光はセシリアによる物だった。椅子に座ったセシリアは焚き火にかざすみたいに、エリスへと手の平を向けており、その手からは青白い光が迸っている。寝ぼけた頭にダニエルの姿が過る。そうだ、この光はダニエルを治療していた時に見た光だ。セシリアは、あの時もこうして青白い光を放出していた。
「傷は……うん。一応塞がってるね。だけど動いちゃ駄目だからね。傷が開いちゃうから」
青白い光は色からは想像も出来ない程に温かい。ぬるま湯に浸かった様な心地良さで、思わず開いた瞼を閉じたくなる。しかし、エリスは心地良さとは別に、身体中の苦痛に悶えていた。エリスの全身は満身創痍の様相になっていた。打撲、切創、骨折。数えれば数える程に嫌気が差す程の怪我の数だ。
「セシリア、僕は……」
「エリスは森の中で倒れてるのを見つかったの。ミーナが担いでブレポスまで運んで来てね。……何があったの? 近くには人狼病の感染者らしき死体もあったらしいけど――」
起きれば何処かしらのベッド――恐らくブレポスの村長から宛がわれたあの宿の一室にて寝ており、しかもセシリアの治療を受けていたとなれば覚醒前後の事実確認は必須だろう。セシリアの言と問いに、エリスは自身の記憶を振り返る。しかし何らかの影響――この全身の負傷に纏わる結果か、脳は記憶を潤滑には思い出せず、ノイズ塗れの記憶は断片的に浮かんでは消える。
それでも必死に思い返せば、徐々に記憶は甦り始めた。
人狼病感染者を誘き出す作戦。作戦通りの展開と異常事態の発生。そして崖から落ちて、それから――。
「……ぁ」
小さく呻いて、エリスは両腕で自分を抱いた。歯はカタカタと鳴り、全身が自身の意思と関係無く震え始める。突如の変貌に、静観の構えであったセシリアも思わず立ち上がってエリスの方へと近付く。
「大丈夫、大丈夫だから」
「はっ、はっ、はっ……」
嗚咽混じりに震えるエリスを、セシリアは優しく背を擦りながら宥める。次第にエリスは落ち着きを取り戻した。
「落ち着いた?」
エリスは黙って頷く。セシリアはそれを見ると、先程中断となった問いを再度問い直した。
「それじゃあ、改めて聞くね。エリス、何があったの? あの森で、あの場所で、何があったの」
セシリアの問いにエリスは幾通りの答えを思いつき、しかし終ぞその答えは口の中でまごつくばかりで外に出て行かなかった。エリスは黙って、視線を落とすだけしか出来ない。
「エリス、言い辛かったら言わなくてもいいよ。でも、辛いなら尚更。出来れば言って欲しいなって私は思ってる。きっと、何か助けになれると思うから」
エリスの瞳がぶるりと揺れた。それは動揺や躊躇いから生じる物では無い。その証拠に、セシリアへと向けるエリスの目には激情に駆られた鋭さがあった。
止めなくてはならない――堰を切った激情はそんな些細な理性を喰らい尽くす。エリスの口が噛みつく様に開かれ、怒りの奔流は言葉となってセシリアへと襲い掛かった。
「……何だよ、それ。出来れば言って欲しい? 助けになれる? 何も分からない癖に、何も知らない癖に! 僕の苦悩が、苦労が、苦痛が。どれ程セシリアに分かるって言うんだよ! 何にも分からない癖に、分かった風な口で甘い言葉を掛けるなよ!」
一息に放たれた怒りの声は、部屋に木霊して消えた。後に残るのは獣みたいに息を荒げるエリスと、それをただ真面目な顔で受け止めるセシリアだけだ。
「エリス。私は分かるよ。全部分かるだなんて都合の良い事は言わない。でも、少なくとも。他の誰よりもエリスの気持ちになれるとは思ってる」
「ハッ、何を根拠に? 軽々しく言うね。セシリアに何が分かるのさ」
「分かるよ。だって」
――私も記憶喪失だから。
セシリアのその言葉は、嫌に静かな声で告げられた。