20 怪物
「――グルル……」
頭の中で重低音の何かが鳴り響いているかの様に、ぐわんぐわんと意識が揺らされる。脳が宙ぶらりんの浮遊感を味わって、気持ち悪さに吐き気を催した。
「グルルル……」
先程から聞こえている呻き声は何だろうか。エリスは真っ暗闇の中で考えて、自分が瞳を閉じている事に気が付く。気だるさを覚えつつ目を開くと、頭上には元気良く伸びた木の枝々と、隙間から覗く夜空が見えた。どうやら自分の身体は地面に横たわっているらしい。
「グルルルル……」
呻き声の主は何処だろうか。頭を動かそうとして、首と後頭部に刺さる様な痛みを覚えた。一旦知覚すると後は連鎖的に気付く、気付かされる。エリスの全身は何やら尋常ならざるダメージを受けているらしく、身体が満足に動かない。
「グルルルルァ……」
いい加減煩わしい呻き声に苛立ちを覚えつつ、エリスは痛みを我慢して首を動かした。
左に半ば寝返りみたいに視線を向ける。
何も居らず、音も遠のいた。こちらでは無いらしい。
では、と。右へと勢い良く身体ごと視線を向けた。
「グルァッ!」
少し離れた場所に、人みたいな獣が居た。
唾液に塗れて鈍く光る牙を前面に押し出して吠えていた。
月の明かりを赤色に反射する双眸が睨んでいた。
目の前の獲物を食い荒らさんと、いきり立っていた。
ここに至ってエリスは全てを思い出す。
自分が崖上で目の前の怪物と戦っていた――否、避け惑っていた事。作戦が破綻してじりじりと追い込まれていた事。そして、目の前の怪物と一緒に崖から落ちた事。
それらを踏まえて眼前の光景を見ると、なるほど、エリスは自分が未だ襲われずに済んでいた理由を知った。どうやら崖から錐揉み状に落ちた際、落下時点で怪物が下になったらしく、怪物の全身の部位と呼ぶべき場所全てが滅茶苦茶になっていた。
ご立派な牙は良く見ると一本足りず、落下の衝撃で折れてしまったらしい。腕は両方ともぽっきり逆方向に折れ、足に目を向ければ、これまた両方ともバネの様に縮こまっていて長さが幾分短くなっていた。
それ以外にも怪我を負っているらしく、満身創痍を体で表している。だがしかし、自分の安全さを知った筈のエリスは息を呑んで恐怖に震えていた。
「なんだ、あれ」
震える声で思わず呟く。眼前の恐ろしい光景に、怪物の怪物たる証明に血の気が引く。
――傷が、怪我が、ぐじゅぐじゅと蠢いて治っていく。
致命的な損傷が秒単位で治っていく。失われた箇所に肉が湧き出て埋まっていく。ぐちゃぐちゃに壊れた部位は、見えざる手に捏ねられているみたいに躍動して元通りに。粘土細工の人形を直すが如きの手軽さで、怪物の身体は元の姿へと近付いていく。
異形にして、異質。生物の越えてはならない壁を越えた怪物。あれこそが災厄の権化なる魔獣。人が出会ってはならない、畏怖の存在。
「に、逃げなきゃ」
赤子並の頼りない身体に鞭打って、エリスは何とか立ち上がろうとする。
全身の痛みはこの際無視だ。目の前の怪物から逃げなくてはならない。それが何よりの優先事項であり、必須事項だ。手の中にあった筈の短刀は、何処ぞへと行ってしまった。怪物が回復してしまっては手遅れだ。対抗手段が無い現状、一切の抵抗なくやられてしまう。
逃げるしかない。
逃げなくてはならない。
逃げて、逃げて、逃げて――。
「グァラァッ!」
一際強い咆哮を上げて、怪物が立ち上がった。怪物の両足は完治とは言えないが、しかし立ち上がる事が出来る程に回復した、してしまった。一方のエリスは未だ地を這いつくばっている始末だ。
「ひ、ひィ!」
情けない悲鳴を上げながら、エリスは這う這うの体で逃げ惑う。後ろから迫る圧力が強まるのをひしひしと感じつつも、振り向く暇を惜しんで手を足を進める。木の根を乗り越え、顔を地面に擦り付け、土を食んで、痛む身体が更に痛んでも止まってはならない。
あの怪物に一度噛まれてしまえば。それはあの怪物と同じ道を歩む事を意味する。ヒトで無くなった、異形の怪物と同類になってしまう。怪物の怪物たる由縁の一部を目の当たりにしたエリスにとって、それは忌避すべき事態に他ならない。人でありたいなら、あれを憎み恨み恐れ慄き貫かなくてはならない。あの怪物は人への冒涜だ。
――なりたくない。ああはなりたくない。
その一心でエリスは森の中を逃げる。自分の姿が如何に浅ましい――それこそエリスの恐れる人からの脱却、獣染みた四足歩行に他ならないとしても、それでも尚、尊厳をかなぐり捨てて逃げ惑う。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
真っ白だった身体は既に土塗れ、草の葉混じった茶色に染まっている。口からは呪詛の様に忌避の言葉が勝手に漏れ出る。手足は折れても構わないとばかりに乱雑に扱われ、意識はとにかく前へ進む事に全てを割かれ、埋め尽くされている。
だから――真後ろに怪物が迫り来ていた事なんて、エリスには分からなかった。
「嫌だ、嫌だ、嫌――グハッ」
上から押し潰されて、エリスの肺から空気が押し出され、口からは空気と僅かばかりの土が吐き出された。全身に奔る痛み。それ以上にエリスの身体を駆け巡るのは怪物に追い付かれたという恐怖だ。エリスは必死に地面を凝視し、自分に降りかかった最悪から目を逸らす。
「ぁ……」
怪物がエリスの腕を乱雑に掴み、うつ伏せになっていたのを仰向けに引っ繰り返した。自然、エリスの視界に怪物が映り込む。エリスに恐怖を与えてやろうという、そんな嗜虐心があった訳ではないのだろう。ただの気紛れか、怪物なりにそちらの方が食べやすいと判断したのか。しかし、エリスにとってして見れば、折角逃避していた恐怖の対象を目の前に晒された事に他ならない。エリスの喉は悲鳴すら放棄し、ただ恐怖に干上がった。
怪物の牙が月明かりで鈍く光る。ぬらぬらとしているのは怪物の唾液だ。エリスはセシリアの解説を思い出す。そうだ、人狼病は体液から感染する。つまり、唾液は立派な感染源だ。あれに噛みつかれてしまえば。エリスは自分を組敷く、目の前の怪物と同類になる。生命の心配はしていない。ただ、怪物と同類になる事が嫌だった。
「あ、ぁ……」
怪物の口が大きく開かれ、ゆっくりとエリスの喉元に近付いて来る。幾らもがこうと、幾ら説得の言葉を繰り出そうと。全ては無意味。エリスはただ迫り来る死を覚悟するしかない。
それが生命としての死か、ヒトとしての死か。どちらになるかは分からない。ただ、次の瞬間に「エリス」が死ぬ事は明白だ。
音が消え、匂いが消え、怪物に乗られている圧迫が消え、色が消えた。死を予見した本能が、最後に取った苦しまない為の措置だろうか。エリスの五感が消え失せていく。
そして最後に。世界が消えて、エリスの意識も露と消えた。