18 数の有利
月が森を照らしている。
銀色の光は森に明と暗を作り出す。中でも傷痕だらけの一本の樹木がそびえ立つその場所は、周囲に何も無いちょっとした空き地になっていて、謂わば光に照らされたある種の舞台だ。舞台の中央にある樹木の下、エリスは手中にある短刀を握り直した。
エリスの今の出で立ちは全身真っ白の滑稽な姿だ。ここが雪原なら擬態化粧として百点満点だろうが、如何せんここは森の中である。元々の白い肌、白い髪と相まって、幽霊か何かが突っ立っている様にしか見えない。
白色の正体はダニエル宅から無断拝借したスウェル――この作戦の目標である、人狼病感染者を呼び寄せる為の物である。ダニエル宅で全身にスウェルを振り掛けたのだが、その際セシリアに「唐揚げになる直前って感じだね」と言われて少々落ち込んだのはエリスのささやかな秘密だ。
全身白化粧少年の手には、フレドリックから自衛用にと渡された短刀がある。刀身が長過ぎず、そして重過ぎない、取り回しの良い得物だ。攻撃が出来ないエリスにとって、武器の重さや長さよりも機動力や使用の手軽さの方が重要だ。囮としてここに立っている以上は尚更の事、エリスに攻撃は必要無い。必要なのは目標をここに誘い出してその場に留める事、そして奇襲成功の為にわずかの時間をここで凌ぐ事だ。
「ふぅ……」
緊張を緩和する為に息を吐く。ついでに汗ばんで来た手の内を服で拭い、もう一度短刀を握り直した。
他の第三班員がどこに待機しているかをエリスは知らない。念には念を、エリスの視線などから相手に居場所を察知されないようにする為だ。相手は今や獣――否、魔獣ではあるが、元は人間だ。何が災いするか分からない。
しかし、どこに居るかは分からずとも、エリスは森の闇に潜む仲間の視線を感じていた。見守られている、と言うよりは見張られている気がするのは何故だろうか。エリスはまだ見えぬ目標への警戒心と共に、仲間からの圧力を帯びた視線に縮こまっていた。
囮としてエリスが件の木の下に立って、もうすぐ一時間。目標はまだ現れない。
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――がさりと、奥の方の草木が揺れた。
油断していた訳では無いが、しかし不意を突かれた形だ。慢性的な警戒心の欠如があったと言っていい。目標が一息に襲いに来なくて幸いだった。エリスは音のした方をじっと睨む。
風では無い。
気持ち悪い位の無風に、森はしんと静まり返っている。夜行性の動物の息遣いすら途絶えたか如くの静寂だ。森は今、暗黙の了解の下に沈黙を貫いているのだ。では静寂を破って突き進んでくる、あの不躾者は何者か。
森の者でも無く、しかし人の気配では無い。
「……来る」
自分に言い聞かせる様に、エリスは静かに呟いた。心臓が俄かに騒ぎ始め、身体中が軽くぶるぶると震え始める。武者震いか、身震いか。エリス自身どちらなのか分からなかったが、それについて思いを馳せる時間は無さそうだ。
「グルルァ……」
獣の声だ。人を捨てた、獣の声だ。
声は徐々に近付いて来て、それに伴って声の主の姿が影より出でる。異様に膨らんだ四肢、刃の様に鋭い牙、赤く輝く双眸、ぐじゅぐじゅ蠢く無数の傷跡。子供が人形を乱雑に扱い、異なるパーツで寄せ集めの出来損ないを作ったみたいな気味の悪さだ。
――間違い無い。ダニエルを襲った人狼病感染者だ。
空気がピリッとひり付く。
息を鎮めて、短刀を軽く握り、目標の攻撃に備える。緊張し過ぎてはならない――自分に言い聞かせても、どこか力んでしまう。エリスは必死に自分の身体を律さんと試みる。
目標は唸ってエリスを睨み続けている。スウェルに誘われて飛びつきたいという本能と、怪しい雰囲気に躊躇う、人の頃にあった理性の残滓との狭間で彷徨っているようだ。しかし、いつまでも膠着状態であって貰っては困ってしまう。エリスに目標が襲い掛かり、意識がエリスに向いた所を第三班のメンバーで奇襲――というのが本来の作戦なのだ。目標を誘き寄せただけでは作戦成功、とはならない。
故にエリスは一手、打たなければならないのだ。
「うわっと……」
自分でもわざとらしいかと思える言葉と共に、エリスは自分の唯一の武器、フレドリックから渡された短刀を手から離して、宙へと滑らせた。エリスの脅威度が途端に激減する。作り出された隙に、目標は堪らず両足の筋肉を解き放った。
「グルァッ!」
咆哮と共に地面が爆ぜる。森から一斉に鳥達が何事かと飛び上がった。見る見るに迫る元人間の魔獣。エリスはそれに対して徒手空拳で挑む――事は無く、宙に滑らせた短刀を逆の手で拾い上げて身構える。
数合、たったの数合の攻撃を防げばそれで良いのだ。その内に第三班の面々が眼前の化物の命を奪い去ってくれる筈だ。エリスは、何処かに潜んで隙を窺っている筈の彼らを信じるしかない。
――初撃は牙だった。
人を捨てた象徴とも言える、噛みつきでの攻撃。原始的で、しかし威力は単純ながらに強力だ。しかもこの噛みつきにおいては、鋭い牙と強靭な顎に肉を食い千切られるだけでは済まない。何せ相手は人狼病感染者。体液には人狼病を感染させる効果がある。唾液に濡れた牙は見えざる脅威も潜んでいる。
「くっ……!」
エリスは相手に対してすれ違う様に、斜め前に飛び込んで牙を躱す。後方で「ガチンッ」と、甲高い歯と歯がぶつかる音がした。音の大きさに躱した攻撃の脅威を思い知りつつ、エリスは次なる攻撃に備えて振り返った。
振り返った先では化物が手を、否、爪を振りかざしていた。エリスは振り返りこそしているが、その体勢は半ば死に体だ。絶望的な状況に思考が止まる。が、エリスの身体は実に有効的に、的確に反応した。例の自動反応での防御だ。
エリスの身体が意識の支配下から抜け出る。手中に何とか残っていた短刀が振り上げられ、爪の一閃に迎合した。耳障りな音がけたましく鳴り響く。短刀と爪が磁石の同極同士を近付けた様に、勢い良く弾かれた。
相手も、そしてエリスも。勢いそのままに次なる行動に移る。エリスは弾かれた腕に更なる加速を与え、遠心力を利用して立ち上がる。化物も一方で逆の腕を反動で振り抜かんとする。
三度目の攻防。人であれば掌底の様な動き、しかし実態は爪による斬撃だ。化物の掌に引っ付いた五つの刃が降り注ぐ。エリスは手にある一本の刃で五つの刃を防がんとする。
滑らせ、弾く。真っ向から挑まずに、力任せにせず、流れに身を任せた防御術。エリスの自動反応での防御はこれ以上無く的確に、正確に動き、自分より遥か上の力と真っ当に張り合う。
「――?」
張り合っている、のだが。奇妙な違和感に、勝手に動く自分の身体を余所に、エリスは内心戸惑っていた。
張り合ってはいるのだが、何故今も張り合っているのだろうか。エリスと怪物との打ち合いは既に幾度も行われている。爪を弾き、牙を裂け、数多の攻撃をいなしている。
そう、幾度もだ。幾度もの攻防を経ているのに、しかし未だ、第三班の面々は奇襲を掛けていない。これでは攻撃の出来ないエリスがジリ貧となって追い込まれてしまう。当初の予定とのズレに、エリスの精神は困惑の極みに陥る。
「グァラァァァ!」
元人間の怪物は容赦などしない。エリスの肉体は精神と違って淀み無く動いているが、しかし、それでこの状況が解決に向かう訳も無い。
作戦の完遂には第三班の奇襲が必須である。にも関わらず――いつまでも奇襲が来ない。
(なんで? どうして?)
疑問符がエリスの脳内で狂喜乱舞する。
幾重の咆哮と打ち合いの音が続いているのに、何故第三班の面々は現れないのだろう。これだけの音の重奏、気付かない方が可笑しいのに――。
「えっ……?」
思わず声が出た。エリスは確認の為の行動に移る。
身体は無意識に支配されているが、全てが支配されている訳ではない。視線は動かせずとも、耳を澄ます事位は出来たのだ。すると耳に飛び込んで来たのは、何種類もの、幾つもの戦闘音だった。
エリスの今居る場所以外から生じる戦闘音。第三班の面々は、何者かとの予期せぬ戦闘に巻き込まれているらしかった。
ふと偶然、視界に傷だらけの、一本の樹木が入り込んだ。ディルクが縛り付けられていたあの木だ。ディルクの行方が途絶えた場所とも言える。
エリスは、ブレポスで老人から話を聞いた時の違和感を思い出した。
一つはダニエルだけが襲われた理由。これはスウェルの所為であった。そしてもう一つは、何故事件発生までに半年の期間が空いたか。これは分からないままである。
しかし、その前に気付かなくてはならない疑問点がもう一つあったのだ。それは「ディルクを縛り付けていた縄を切ったのは何者なのか」である。して、その答えは。奇襲の為に潜んでいた第三班のメンバーが相対している。
眼前の敵以外から聞こえる、獣染みた咆哮。咆哮はいつしか独奏から重奏になっていた。敵の正体や規模は分からないが、声の重複の度合いから、第三班の人数より明らかに多い。奇襲を仕掛けて数の有利を取り、短期決戦で決めるつもりが、逆に数の不利に立たされていた。
「う、ぐぅ……」
じわじわと、しかし確実にエリスは押され始めていた。如何に的確で正確な防御をし続けていても、体格の差や身体能力の差は歴然だ。寧ろ良くここまで異形の怪物相手に耐えたものだ。
エリスはたまらず、じりじりと後退していく。視線は眼前の敵から逸らす事も出来ず、後ろが全く見えない。時折段差に躓きそうになる。
(どうする、どうする!?)
エリスが幾ら内心動揺に焦がれ様とも、事態は何も変わらない。助けを願っても他の面々も戦闘中だ。誰も、何もしてくれない。エリスはただ窮地に追い込まれる。
「――えっ」
唐突に地面の感覚が無くなった。
強い喪失感と、急の浮遊感に晒されたかと思うと、エリスの身体は突如、急転直下に落下していく。目の前にはつい先程まで打ち合いを交わしていた化物。どうやら一緒に落ちているらしい。遠くに、自分が踏み外してしまった崖が見える。
――錐揉み状に落ちながら、そして。
エリスは後頭部に衝撃を受けて気を失った。