12 当然の代償
暗殺者に、眼前の少年が繰り出す斬撃を避ける余裕は無かった。
寸前に繰り出された正拳により重心は揺らぎ、剣を斬撃に割り込ませるには一拍程遅れている。エリスの繰り出す斬撃は、その見た目の幼さに反して鋭い。極限までに削り抜き――それこそ、技を放つ少年の姿すら希薄に思えてしまう程に研ぎ澄まされていた。抵抗の余地無し。暗殺者は一秒も間を置かずに訪れであろう少年の一撃に、せめてもの覚悟を以ってして備える。歯を食い縛り、胴の筋肉を固めた。傷を僅かでも浅くし、攻撃を受けた後の行動に――相手が許すならばだが――迅速に移れるようにと。
しかして、その覚悟は無駄に終わる。
眼前の少年騎士――エリスの口から赤い液体が吐き出され、必倒の一撃は空を漂うだけに終わったからだ。
エリスは、自らの下に完全に帰って来た感覚の訴えを確かに感じながらも、どこか呆然とした心で空振りに終わった剣先を見た。黒い刀身が宙を彷徨い、剣先が力無く床へと――違う。剣を握る腕が、それを支える肩が、胴が、足が。エリスの肉体が力無く床へと崩れ落ちているのだ。 身体が言う事を聞かない。骨や筋肉を幾億にも裁断されたかの様に、痛みだけが脳に上り、命令が五体へ下りない。指の一つすら満足に動かず、自らの剣はゆっくりとした視界の中で零れ落ちていく。眼球を動かすのすら億劫に感じる程の疲労感に、激痛。それらを跳ね除け、エリスは崩れ落ちる肉体とは真逆の方向へと眼球を抗わせる。そこには、暗殺者が見えた。腹程までしか見えなかったが、暗殺者は健在だった。当たり前だ、正拳こそ当てたが、振り下ろしは届かなかったのだから。最初に奇襲で蹴飛ばしたもう一人も、いずれ回復するだろう。フレドリックはここに居ない。彼の声を無視して飛び込んだのから、エリスはここに独りである。
肉体が床へと近付いていく。眼球も何時までも暗殺者を見上げる事は出来ず、筋肉が緩んで視界が下へと落ちる。その最中に、エリスは見てしまった。
真っ暗な部屋の隅。そこには丁度、悲鳴の数と同じだけの死体が折り重なる様にして積まれていた。そして、その奥のクローゼットの隙間からこちらを見ている、子供の瞳と視線が重なった。親が隠したのだろうか。自力で逃げ込んだのであろうか。子供は手を伸ばせば届く距離にある親の死体と、今目の前で倒れていくエリスへと視線を彷徨わせていた。その目が語る――一人にしないでと、助けてと。生にしがみ付く本能、死への恐怖。親を失った喪失感、現れた味方の喪失。それらが子供の目に絶望を灯していた。それを見てしまった瞬間、エリスは倒れる訳にはいかなくなった。
――エリスの肉体は、ボロボロである。
魔術学会開始から今に至るまで、エリスは断続的に自動反応の行使を継続していた。常に内面世界の器を火にくべ続け、必要とあらば火を増して自動反応を引き出していた。自動反応は、その行使を終えた瞬間に反動とでも言うべき倦怠感や疲労感が襲い来る。そこで、エリスは考えた。もし、自動反応を継続して行使し続けていれば、倦怠感や疲労感を先送りに出来るのではと。事実出来た、出来てしまった。本来なら三十分程度しか持続できないモノを、無理矢理に二日間も維持してしまった。
当然の代償として、エリスの肉体は現在、死体に比肩する損壊具合となった。止めとなったのは、暗殺者との戦闘であった。限界ギリギリだった肉体には、全力全開での駆動が耐えられなかったのだ。筋肉も、神経も、脳も、内臓も。全てが全て、働きを終えんとしていた。
医学の志がある者ならば、一周回って感心すら覚えてしまいそうな程の惨たらしい損傷。エリスは理解していた。内面世界に投影した想像であり不変の筈の自らの肉体が触れば崩れる灰の塊になっているのに気付いてしまえば、自らが死に絶えようとしている現状を十分に理解出来た。
しかし、理解した上で、エリスは必定の運命に抗う。
ここで死んでしまえば、目の前の暗殺者を誰が倒すのか。絶望に震える子供を、誰が守るのか。どちらも騎士として為すべき当然の事。ならば、ここで為せないのならば、エリスは騎士では無くなってしまう。死ぬのは別に良い。だが、ここで死ねば騎士として死ぬ。それは、エリスとしての自分を殺す所業だ。それは駄目だ。「エリス」を守らなくては、騎士でなくては――狂った信念に突き動かされて、エリスは死に向かう肉体に鞭を打つ。全身全霊を滾らせ、生命を燃やし、醜くももがき続ける。
足は駄目だった。腰は駄目だった。腹も背も駄目だった。肩や腕も、やはり駄目だった。
動いたのは、右手の人差し指。ただそれだけ。それも、中途半端に伸びていた指を伸ばしきるだけの動作で限界を迎える。自己満足が手から零れた。支えとなっていた指を一つ失い、重力に引かれて自己満足が落ちる。エリスの肉体よりも先に床に辿り着き、高さ分の力を持った愛剣は僅かに、剣先を天井に向けて跳ね返った。
跳ね返って。
偶然にもそこにあったエリスの右の掌に、自己満足の切っ先が僅かに刺さった。
――死の運命が覆る。