10 死臭
「おかしい、有り得ない……」
件の鼠達の使い道は「餌」の一言に尽きた。
注射の中身、それはレイ曰く「反不活性魔素剤」なるもので、彼女がぶつくさと呟いていた内容を纏めるに、魔素以上の誘因効果を秘めているらしい。それも、拒絶が選択肢に浮かばない程の、問答無用の代物だ。
故に、目の前にある手付かずの鼠と未作動の罠を見て、レイは首を傾げている。既に鼠は物言わぬ屍、夕焼けに横たわった死体の小山が照らされている――ただの無駄死にであった。
「罠を見破られたとか、鼠を警戒したとか……そう言ったこちらの『落ち度』では?」
「無い」
門外漢ながらに生じたエリスの指摘を、レイは即断で否定する。その語気には苛立ちが垣間見えた。
「魔獣にとって、反不活性魔素剤は抗えないモノ。鎮痛と中和・解毒の違い。その差は似て非なる物でしょ? 前者は対処療法だけど、後者は完治を見込めるんだから」
「? その差とやらを魔獣が分かってれば飛び付くでしょうけど、分からなかったから警戒が勝ったんじゃ――」
分からないなりに、エリスは話を合わせる。まだ理解出来る部分を繋ぎ合わせて、早々に結論を促した。記憶喪失であるが故に身に付いた、彼特有の話術である。
それに対し、レイは現実を突き付けた。
「一万回」
「? なんの――」
「一万回中一万回。魔獣は反不活性魔素剤に惹かれた。視界の外にあろうとも、あからさまな罠を見せていても、死の淵を彷徨っていても、交尾の最中でも。その存在を認識した途端、全ての魔獣が例外なく飛び付いた。……今まで積み重ねて来た、実験結果よ」
その数字の説得力に、エリスは押し黙る。後ろで黙っていたフレドリックも、レイの苛立ち――否、焦燥感に似た心のざわつきを共有する。その実験結果を信じるに、魔獣にとって反不活性魔素剤は何にも勝る欲求対象なのだろう。生存本能、理性と警戒心、生殖本能。それらを押し退け凌駕する魔性の誘いを、此度の魔獣は跳ね除けたと言うのか。
今、三人の手元には二つの選択肢が転がっている。即ち、件の怪事件は魔獣の手によるものか否かの二択である。
レイの手腕と実験の数字を信じるなら、怪事件は魔獣によるものでは無くなる。その場合、捜査は振り出しより更に後ろに戻る。手掛かりはなく、一つの候補が消える代わりに無数の候補が目の前に広がる事になってしまう。
レイを信じず、飽くまで魔獣の仕業とするなら、候補はそのままに危険性と難度が跳ね上がる。追えず、捕まえられず。一万の通例を超える一万一回目の例外。規則性、法則、習性、特性。それらの言葉からは説得力が霧散する。ただの良く分からない化け物を、手探りで追う事を認めなくてはならなくなるのだ。
諦める、そんな選択は無い。騎士であるエリスとフレドリックは勿論、レイとてそんなつもりは毛頭無かった。だが同時に、巨大な暗雲が心に立ち込めているのも事実である。
最初に口を開いたのは、レイだった。
「埒が明かない……ここで考えても仕方が無い、か。一回協会に戻る事にするわ。三時間後位にそっちに行く、それまで待ってなさい」
そう言って、彼女は歩く暇すら惜しんで走り出した。その背に、エリス達は彼女の真剣さを知る。――任せるしかない。二人は、胸を焦がす無力感を堪えて、警邏の方へと合流するのだった。
レイが魔術協会に辿り着いたのは既に日も沈み、夜の帳が落ちた頃だった。今日は半月であり、歩く分には困らないが、顔色は分からない程度の暗さにはなっている。
だからレイは、それにすぐ気付けなかった。
初めは昼間と同じく、協会の支援者や関係者の集まりかと思っていた。また面倒臭い人付き合いがあるのかと、差し迫った急務と合わせて苛立ちを覚えながら進み、レイはそこに居る人間が支援者たちでは無く、魔術協会の者である事に気付く。すると湧き出るのは当然の疑問だ。どうしてこんな所に集まっているのか、である。ここは魔術協会に複数ある入口の一つで、人だかりが出来ているのはそんな入口から少し入った地点だ。夜風もあるし、文字を読むには辛い暗さだ。何を好き好んで、あいつらは集まっているのだろう。レイは疑問に思いながらもやる事がある故に通り過ぎようとして――鼻に付く臭いを感じ取った。
ある意味では嗅ぎ慣れた、ある意味では非日常な臭い。誰でもその臭い自体は人生のどこかで知っているだろうが、この臭いは日常では有り得ない程に濃い。重く、べったりと纏わりついてきて、背筋に鳥肌が立ち、脳が掻き毟られるような悍ましい臭い――血の臭いだ。
通り過ぎようとした足を止めて、人だかりへと視線を向ける。そこに集まる人間は皆、一様に同じ地点を向いている。円状に取り囲んで、その中心を見ている。そこにある音は呻き、嗚咽、或いは何らかの考察を秘めた独り言。異常なまでに会話が見られない。つまりは、隣り合った人間との交流が出来ていない。異様な交流の断絶が、この場にはあった。
気が付けば、レイは人だかりを掻き分けて中心へと向かっていた。肌と肌が触れ合うまでに近付いて初めて、人だかりを構成する彼らの顔色に気付く。それらを見るに連れ、レイの足が速くなる。その原動力は好奇心でも、知的探求心でも無い。魔術師としての彼女には無い心が鳴らし続ける警鐘が、彼女の足を急かしていた。
そして、人垣を抜けて、それを見る。
真っ赤な、真っ赤な肉片。野犬に食い荒らされたような、何かの死体。それが人のモノだとすぐに判断出来たのは、そこにボロボロになった衣服があったからだろう。そして、レイはその衣服の主すら分かっていた。何せ、昨日も会い、今日も会ったのだ。きっと、明日も会うと思っていた。
レイは彼をからかうのが好きだった。
少し、今日のは威圧的過ぎたかなと反省していたけれど、それでも、明日もやってやろうと思っていた。恋愛感情では無い。絶対に違う。それを言葉にするなら、親しみというのが一番近いだろう。レイが無色生の頃からの付き合い。気付けば同じ学師になっていたが、それでも縁は途切れなかった。気兼ねなく、本心を言葉に出来る相手。性格故に攻撃的で、自尊心が一層刺々しくして、関係故に遠慮の無い物言いだったが、ここ最近の精神的重圧に参っていた彼女にとって、彼の存在は一種の支えだった。それは絶対に言葉にはしないし、彼はきっと良い気持ちでは無かっただろうけれど。それでも、彼なら許してくれるかなんて、そんな風に思っていた。
もう、叶わない。
魔術協会の敷地。今尚続く魔術学会の傍ら。半分に欠けた月が照らす下で、 ロバート・J・ノックスは、ばらばらの肉片で発見された。